酸とアルカリ その1|高橋正朝 #58
例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。
昭和43年明石町住宅地図
居住者のことについて、以前投稿した内容と、一部重複します。
私が、鹿島東小学校の1年生か2年生の、夏ごろの季節だった。 柿崎徹さんや、小林順治さん、それから阿部寛子さんたちは、まだ、明石町番外地に引っ越してなかった。
しかし、ナガミネさん一家は、とうに千年町のほうに引っ越していた。
ナガミネさん一家が住んでいたのは、小田川?と表記されている場所です。 その右側は空欄になっています。 この空欄のスペースが、ナガミネさんの馬小屋だった。 つまり、小田川?と表記されているスペースと空欄のスペースには、ナガミネさんが住んでいた。 借家だったか私有物だったかまでは、幼児だった私にはわからない。
ナガミネさんが引っ越した後に、2家族が住めるように改造された。
私の幼年時代から東小学校低学年のあいだに、2〜3回ぐらい居住者が代わっている。 そのうちの1人が、板金作業をする職人さんだった。
その板金ヤさんの名前や顔は覚えていない。 そのスペースで、板金ヤの店を開いていたわけではなかった。 しかし、外で、時々、板金作業をしていた。
幼児期だったので、記憶が定かでないが、もしかすると、ナガミネさんが引っ越した後の馬小屋のスペースが、板金作業の材料や工具置場になっていたのかもしれない。
板金ヤさんは忙しかった。 私の幼児期だったから、大夕張の石炭景気が、最高潮に達した時期であり、仕事は、いくらでもあったころだ。
夕暮れまで、作業をしていたことを何回も目撃した。
私は、当時、時刻の時計盤の 見方を知らなかった。 知ろうとする意欲も興味もなかった。
母親が、「 もう寝なさい 」と言うまで起きており、「 もう寝なさい 」と言われたときに、時計盤のローマ数字と時針を見比べるな〜んてこともなかった。
時計は、30分ごとに、ボンと鳴り、時刻ごとに、その数字の数だけボ〜ン•••と鳴る、ゼンマイ式のうるさい時計だった。
計画停電があったころで、夕暮れ時とはいえ、夏場の陽の残光のある6時半ごろに、寝たくもないのに、寝かしつけられるのは、大いに不満だったが、停電になるのだからしかたがなかった。
余談だが、明石町の浴場には、髪洗い日というのがあり、女性は、その日だけ髪を浴場で洗うことができた。
東小学校3年生になったとき、浴場の湯は豊富になり、ほぼ同時期に、頻繁な計画停電はなくなった。
オモチャらしいものもなかった時代だから、板金ヤさんが、家の外で作業をするときは、しょっちゅう眺めていた。
関心があったのは、火であった。
板金加工で、ハンダ付けをするコテは、焼きゴテを使用していた。 火は炭で熾し、その上にコークスを置き、そのコークスが、明るいオレンジ色に灼熱していくのを眺めていた。
暗くなりかけた夕暮れ時のコークスの火のオレンジ色は美しかった。
炭火に焼きゴテを入れると、炭の灰がコテに着きやすいので、それで、コークスの火を利用していたようだ。
このコークスの火の他に、もうひとつ関心を持ったものがあった。
酸である。
水と思っていたものが、実は酸だった。 水かなと思って指を入れようとしたら、板金ヤのオジさんに怒られた。
トタンだったかブリキだったかまでは知らないが、板金をハンダ付けする前の、金属板にできた被膜を落とすため、酸洗いするためのモノだったようであった。 その酸は、塩酸だったか硫酸だったかまでは知らない。
酸の恐ろしさはよく喧伝されていたが、それに比し、アルカリの恐ろしさは、当時の我々は、あまり知らされていなかったように思う。
(2021年9月18日 記)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
懐かしい町名、人名がありましたので投稿させて頂きました。
私もかって学生時代、明石町に住んで居たことがあり、また長峰という名字から、おそらく、私の同級生なのではと思います。彼(長峰)とは
中学二年、三年と同じクラスで、また、当時バンドをやっていたメンバーでした。
懐かしい気持ちでいっぱいです。