栄町浴場前
栄町2丁目と3丁目の間の通り。
『リハツパーマ』の位置から、『右向け右』して数メートル移動した視点。
道路の先に児童会館と荒川商店の建物が見えている。
この頃の写真にしばしば映り込んでいる大浦貞助氏の看板・・・・。
氏は、大夕張炭労の書記長を務め、昭和46年(1971年)の北海道議会議員選挙で、石川十四夫氏とともに、夕張市から当選。四年一期勤めた。
栄町の浴場 【飯田 雅人】
中央に共同浴場に続くパイプから吹き出る蒸気の音が聞こえてくるようです。
理容フレンドの横を流れる側溝にそって、富士見町からまっすぐゆるやかな坂を下ってくると、浴場の前のこのあたりに出ました。(自転車に乗った少年がいるあたり)
写真のこの道をまっすぐに進むと左手に栄町の児童公園、児童会館。そして,駅前通りに出ました。池田屋と荒川商店、緑町の集会場のあったあたりです。右手には、栄町のアパートが立ち並んでいました。
栄町の浴場ですが、昭和46年には、浴室の天井が落下するということがあったそうです。
この道。砂利の敷かれた道。砂利と書きましたが、今あるような角のとれた丸い石ではなかった。角のとがった砕石が、ごろごろと敷かれていました。車が通れば、砂埃がたち、石をとばしました。ころぶと確実に足や手をすりむきました。この道で自転車に乗ると、ガタガタと尻を自転車のサドルに打ち付けたいへん痛かった。
栄町浴場付近 【乗田 功一 】1998年04月14日(火)01時30分10秒
栄町浴場は、私の家からすぐの所でしたのでとても馴染みがあります。
むかし、栄町には写真のコンクリート建築以外にもう一つ浴場がありました。『リハツとパーマ』の看板が目立つ菊池床屋(元千葉理容店)の並びだったと思います。
子供の頃、私の家は代々木町だったのですが、近くに浴場が無かったのでこの木造の少々陰気な浴場へ通っていました。
洗い場がザラザラのコンクリートで、滑って転ぶ心配はなかったのですが、座るとお尻が痛かった思い出があります。
いつのまにかこの浴場も無くなってしまい、私も栄町のブロックに引っ越したので、写真のコンクリート浴場へ通うことになりました。
また夏休み中は、この浴場の横の広場(写真の左側車のあたり)でラジオ体操をやっていました。
毎朝、ハンコを押してもらうのが楽しみで通ったものです。
広場と道路の境に大きなポプラの木があったのですが、切り倒されたあとの写真のようですね。
右側に見えるブロック(2丁目12番か)の向こう側に、富士見町から春日町に流れる下水があり、それを越えると栄町の詰め所と集会場。いろいろ思い出されます。
下水沿いにも道があったのですが、現在では下水もろとも草に隠れてしまいました。
今この場所に立ってみても、とてもこの写真と同じ場所とは思えないほど変わってしまいましたが、左端の住宅だけは今も残っているようですね。
落ちた天井 【Masami Kawauchi】
栄町の新しいお風呂、確か前に階段が有りました。
このお風呂、母の従姉妹の菊池さんがやってて、小学校の時、お風呂掃除、手つだった事が、有ります。
昭和46年に女風呂の天井が落ちました。
一緒に働いていた釜沢さんの娘さんがいたそうです。
春日町のお風呂は、40年ごろ、湯船の男風呂と女風呂の上のところに、ラジオが置いてあって、ちあきなおみ の、『四つのお願い』が、かかっていました。
近所に住んでました【かわしも けんいち】
栄町のブロックで、近所でしたのでとても懐かしいですね〜
生活の一部 【高橋 勝美】
生活の一部だった浴場でした。決まった時間に行き、いつもの顔ぶれ👀大きな浴槽が二つ。潜水艦のおもちゃを持って遊んだ。冬は、濡れたタオルを振り回して凍らせチャンバラしてた。
ところで、男子の幼少期は母に連れられて女風呂に行く習慣だったかと思いますが、果たして何才まで女風呂に行ってましたか?と言う話になります😅
同級生とよく話題にならます。
ちなみに、私は小5年まで母に連れられてました💦