大夕張鉄道敷設案
昭和4年の(北部)大夕張開鉱以前、北部大夕張の炭田の有望なことが明らかになり3本の専用鉄道敷設案が検討された。
大正7年(1918年)
7月、三菱鉱業が北部大夕張(鹿島)を調査し始める。
北部開発第1次案として『北部大夕張-万字間』鉄道調査。
万字の石川呉服店を根據として調査を開始するも急坂のため廃案。
大正8年(1919年)
北部大夕張に石炭が発見された。
北部開発第2案として、『夕張川本流を溯り、北部炭田』に達する計画が立案された。
しかし、工事の着手には至らなかった。
大正10年(1921年)
北部開発第3案として、『遠幌加別川を溯り、鹿島沢附近』に達する鉄道が立案された。
実際に、遠幌-北部間の測量を開始したが、全線40分の1(1000分の25)の急勾配となる上、延長800メートルに及ぶ隧道のほか、2、3ヶ所の隧道を必要とする悪条件のため実現に至らなかった。
大正12年(1923年)
北部開発を、第2次案を最良として測量開始されるが、関東大震災のため中止になる。
上のような紆余曲折を経て、最終的に
大正15年・昭和元年(1926年)
8月 北部開発、第2次案の 『夕張川本流を溯り、北部に達する』 通洞案に決定。
南部二股市街から、ダニ峠を通り、通洞台地(鹿島小グランド)まで、馬により資材・機械を運び、 昭和4年の完成を目指し、 南部-北部大夕張間の鉄道工事が始った。
昭和4年(1929年)
6月に、南大夕張~北部大夕張間で、三菱鉱業所専用鉄道が開通し、送炭を開始した。
大正7年(1918年)の北部調査開始からあしかけ11年、昭和4年(1929年の)のことだった。
上の図には、赤い点線で、3つの鉄道案が示されている。
灰色で示されているのは、当時、人が通った道と思われる。
下のリンクから、昭和2年の『むかしの道』のルートが、鹿島小学校郷土室の教材からわかる。