昭和34年頃 大夕張カトリック教会 上空から
鹿島小学校の新校舎が完成して間もない頃。
緑ヶ丘と呼ばれていた地域。
鹿島小学校の裏手の坂を登ったところにあった教員住宅や、教会の裏手の土俵が確認できます。
炭礦が景気の良いときは、大相撲の巡業も行なわれました。
『おばけ神社』といわれていた場所があります。この写真の右手、大夕張神社への坂道を登り、最初の曲がり角になったところ。ここは、大夕張神社への登る道、途中ここで一息ついたものです。そこから山に向かって直線的に上がると、ちょうど浄水場の下あたりに広場がありました。昔、乃木神社があって、その跡地だと聞きました。その場所を、由来やいわれは知りませんが、『お化け神社』といわれていたようなのです。
かつて「ふるさと大夕張」で大夕張『思い出の場所』のアンケートを採ったことがありました。『おばけ神社』は、『栄町の池田屋食堂』に続いて第2位になっています。
鹿島中学校の写生会,ここから入った山の斜面で正面に見える鹿島小学校と夕張岳を描いていた記憶が残っています。
この写真はすでに鹿島小の新校舎が建っいてますが、カトリック教会の後ろにあった幼稚園はまだなく,屋根付きのりっぱな土俵が建っています。山の斜面を観覧の住民がいっぱいに埋めて、大相撲の巡業が行なわれたそうです。昭和32年8月に千代の山一行が大夕張を訪れたという記録が残っています。ここの土俵を使ったかどうか定かではありませんが、私が小学生の低学年の頃には鹿島小学校の近くに土俵があったという記憶は残っています。昭和43年、中学生になる頃には無くなっていました。
この写真の土俵は聖心幼稚園建設とともに取り壊されて無くなったということです。幼稚園建設は、昭和38年頃のことのようです。
お化け神社の思いで 【成松 泰彦】
神社にテニスコート横から登って行く・・・。
坂道の最初の踊場、「く」の字の曲がり角から真上に、知る人ぞ知る抜け道があった。
草薮を押し分けて入ると、そこには小さいがクラスメートが集まれる広場があった。
そこが僕らの小学校時代の思い出の溜まり場で「お化け神社」と呼ばれていた。
放課後、そこにクラスメートが集まってくる。男の子も女の子も・・・
そしてドロボーと警察に分かれて、かくれんぼが始まる。
きゃぁ~。きゃぁ~。言いながら、850の方角に太陽がゆっくり沈んでいくまで・・・ 遊んだよなぁ~。
確かあそこに立派なオンコの木があったと記憶している。
ところでなんで『お化け神社』って言ったんだろう??
鹿島小学校裏手の宝沢の方には、鹿島小学校の理科でいきましたね。
この教員住宅には何回か訪ねた気がします。