鹿島東小の誕生 1951年
終戦直後の国策である石炭増産により、鹿島の人口は急増し、鹿島小学校の児童数は増加の一途をたどった。
大夕張の町も、昭和14年以降、錦・宝・春日の各町が新設され、更に第一農場(明石町駅付近)、第二農場(桜ヶ丘付近)を含めた明石町、常盤町が昭和23年~25年にかけて開町するに及んで、学級数は40をこえた。
ここに至り二部授業、一学級60名以上という鹿島小学校のすし詰め状態を早期解消のため、学校新設が急務の課題となった。
校地選定は夕張市長の依頼を受けた地元の市会議員が大夕張営林署に陳情を行なった。
そして、千年町町内会が食糧確保のため無償貸与を受け開墾していた国有地の開放に成功した。
その折りには、高圧送電線の設置とからんで大夕張礦業所との折衝などが必要であったという。
25年4月に学校設立が正式に決定され、やがて土地の造成と校舎の建設が開始された。
工事は地元の井出組によって急ピッチで進められた。
鹿島小学校においては、通学区域問題で、何回かPTAの会議の結果、近い将来「宝・錦 両町を東小の通学区域」とすることを含んで、まず「千年町以南を東小の校区」とすることにまとまり市議会の決定をみた。
PTA会の組織分離、会費財産の分予を名目とした贈呈金などが決まり、昭和26年1月3学期始めには、異動教職員に対する校長による折衝、学級編成などが行なわれた。
こうして順次体制が整っていった。
昭和26年5月、真谷地中学校校長だった猿倉義松氏が初代校長に任命され、校舎が完成した。
翌6月1日付けで、小林清次教頭以下13名の職員が発令となり、同月13日、児童600余名とともに、鹿島小学校児童及び父母多数が見送る中を歩いて、新校舎に到着した。児童たちは、自分たちが使う机や椅子を背負い、教師に引率されて移動していったという。
一般公募による校名も決定し、同月24日、父母・児童喜びの中、開校式典が盛大に行なわれた。
(鹿島東小学校閉校記念誌より 加除修正)