大夕張の商店街 その1
【南部の商業地】
南部が『大夕張』で、大夕張が『北部大夕張』とよばれた明治から大正にかけての時代。
南部の大夕張炭炭坑に労働者が集まると同時に商売をする人たちも集まってきた。
その頃の話から始まる。
明治39年(1906年)、大夕張炭坑が開坑すると同時に、多数の労働者が入り込んだ。
これにともなって、日用品を販売する商家が、2、3軒建った。
しかし、市街という程のものではなく、住む人々は、8キロ離れた清水沢市街まで行って多くの必要な生活物資を求めていた。
当時の南部、清水沢間は、次のような様子であった。
国鉄清水沢駅から南部までは、7.2キロ、途中、遠幌寄りに保線小屋があるだけで、山また山。重なりあうような森林は、昼でも暗く熊のスミカでもある。
山ひだを縫うように走る曲がりくねった鉄道線路の一本道、シューパロ川本流沿いを歩く。
きりたつような断崖にかけられた、遠幌加別川の鉄橋は、あゆみ板もなく、枕木のあいだから下をみれば目もくらみそうで、冷や汗がスーッと背筋を伝わって、シャツやリックにすわれていく。
川の流れは緑に映えて、あくまでも青く、千古の山々の峰をかすめて本流にそそいでいる。
当時の労働者は、8キロ離れた清水沢まで道なき道を、生活物資の調達に歩いた。
その後、明治45年(1912年)、炭砿が三菱鉱業の経営に移った頃から、市街地は鉱業用地であるため、商店を許可制とした。
商店経営を助成するため営業種目を限定し、販売価格も統制した。
鉱業所によって抑えられているため、市街としては発展することも、特に賑わうということもなかった。
反面、極端にさびれるということもなく、平凡な市街として、北部大夕張移転まで続いた。
三菱礦業所の大夕張への移転と同時に、大半は大夕張に移転することになる。
【指定商たち】
南部地区の商店の草分けとされるのは、沢木善太郎である。
沢木は、明治42年荒物雑貨店を開業した。
明治45年に指定商として許可されたのは、
沢木商店・永原魚菜店・坂本呉服店・中本呉服店・中村豆腐店・高田菓子店・山本料理屋・佐藤運送店・細川運送店
この他、小寺菊太郎・駒啓次郎・別所某が飯場を経営していた。
大正7年9月に、井出豊平が、土木建築業を始めた。
大正15年発行の『夕張大観』には、新しく、
伊藤菓子店・笹原古物商・料理屋加賀屋
のほか、請負業として、
大井鉄平・佐藤甚三郎・曲山与三郎・佐藤庄太郎(木材業)
の名前が載っている。
大井組は、飯場をかかえ坑内の仕事も請け負っていた。 しかし、錦抗での炭鉱事故以来、坑内関係の仕事から手を引いた。
昭和4年北部大夕張が開坑されると同時に、
永原商店(料理屋)、土建木材業の大井鉄平・佐藤庄太郎らは、指定商の一員として北部大夕張に移っていった。