栄町1丁目の通り
昭和32年11月に栄町アパートが完成し、入居が始まった。
外便所だった炭住も内便所になったという。
見えている栄町アパートは、こちらから、1丁目14番。13番、12番。
12番の隣は、・・・昭和40年代は、空き地だった。
ここでは、古い住宅が見える。
昭和36年の大夕張上空からみた『台地にひしめく炭住群』の写真を見てみると、ここからもびっしり住宅が建ち並んで続いている。
舗装された通りに、側溝も整備されているのがわかる。
昭和20年代後半から昭和30年代前半に整備されていったらしい。
写真は、昭和30年代中頃か。
昭和40年以降、モータリゼーションの時代を迎える前の、まだまだ道路が人中心だった頃ののどかな大夕張の通り。
バイクと自転車に乗った人物がいる。
通勤手段として当時は、バイクや自転車が使われていた。私も叔父のバイクの荷台に乗せてもらったことがあった。
夏は馬車、冬は馬そり等で運搬手段としてよく使われ、各家庭に燃料としての石炭や荷物を運んでいた。
モーターがついた電動自転車や、ハンドルのオート三輪をよく見たのもこのころ。
余談だが、馬車が通っあと残していった(馬糞)をそのカタチゆえ、(お饅頭)とよび、たかるハエも含め、よく眺めていたことがあった。
藁が主食のため、馬の糞は不思議と汚い、臭いという程の記憶がない。
馬の残した(お饅頭)もそのうち乾燥し、藁屑となって何処かへと風と共に飛んでいった。
春先の暖かくて風の強い日、ボーッとして口を開けていると、「馬糞が口に入る」とよく冷やかされたこともあった。
雪の中に残された(お饅頭)が春になって溶けて乾燥し、強い風とともに運ばれるからだというが、本当に馬糞が空を飛んでいたかは定かではない。
そんな春に吹く強い風のことを『馬糞風』とよんだ。
とあるブログで、昔の札幌のそんな時代を知る人物の話として、「馬糞風」の話を「古老」から聞いた、という表現があった。
大夕張では、昭和30年代、そんな遠い時代の話ではないと思うが・・・、そう思うのは自分だけで、ついに自分も「古老」の部類に入ってきたのだろうか。(笑えない)
栄町ブロック 【山本栄子】
我が家は1丁目16番地
ブロック 夏涼しく 冬暖かいが うたい文句😃
水洗トイレでした。
明石町からの引っ越しで 途中転校が 嫌で 確か東小迄通い 新学期に鹿島小に転校したと思う。
炭鉱の生活が私の原点かな😃
昭和36年大夕張上空から↓