大夕張へい山反対!|市橋勝
私が鹿島東小学校の5、6年生の担任の先生は水間テル先生でした。
優しく肝っ玉母さんのような「豪快さ」で、悪ガキだった私を見守っていてくれたことを思い出します。
当時、水間先生はクラスの私達に定期的に日記を書かせ、それを提出させていました。
しかも、丁寧なコメントを添えて毎回返却してくれていました。今にして思えば、とても有り難いことだったと痛感します。
その日記ですが、なんと私の母がずっとタンスの奥にしまっていたらしく、十数年前に私が結婚する時に
「これ懐かしいでしょ?」
と、手渡してきたのです。
ビックリしました。
自分の隠しておきたい最も恥ずかしい部分を、記録として残されていたというのは、いかにも不覚に感じたと同時に、なにか遙か昔に別れた旧友に再び出会った懐かしい喜びを感じる思いでした。
年末の掃除をしていたら、その日記を再び資料ケースの奥から発見しました。
ずっと捨てられずにいたことを思い出しました。
パラパラ見ていると、ほとんど抱腹絶倒ものなのですが、残念ながらあまりにも稚拙なので、人様に公開できるような代物ではありません。
ただ、当時の大夕張鉱の閉山に関しての気持ちを記述している箇所があったので、一つだけ書き込ませて下さい。
また、水間先生には無断で申し訳ないのですが、先生のコメントも併せて掲載しておきます。
先生の暖かさが伝わる内容ですので。
字句に関しては当時のままの漢字やカナで復元しておきます。
所々の日本語のまずさに関しては笑って許して下さい。
大夕張へい山反対
(註:日付は6月12日(火)となっている。当時私は小学校6年生なので、1973年頃。)
このごろ「大夕張はへい山だ。」などという声が、毎日のように耳にはいります。
ぼくたちも、もうへい山だなと無関心でいましたが、いざへい山となるとなげくでしょう。
おおぜいの友達、夕張岳、シューパロ湖などとはわかれたくないからです。
やはり、六年生の時はじめて友達になった人とでも、そつ業するまでわかれたくないものです。
先生もいつか言っていました。
「今までへい山反対をしてきても成こうした所は一つもないんだと言ってあきらめるのはだめです。やるだけのことはやってみないと・・・・。」
まったくそのとおりだとぼくも思います。
無理なことだとわかっていてもやってみよう、という気持ちがぼくはたい切だと思います。
<水間先生のコメント>
そうです。「やってみよう。」という気持ち。そして努力してみる態度が大事です。
「若いうちの苦労は買ってでもすれ」とよく言うではありませんか。
らくをしよう、らくな道だけを歩こうと若いうちから苦労からにげようとする人は、進歩も何もできない、無気力な人間になってしまう人だと思います。
行動し、考える。又考えなおして、行動する。
そして、半歩でも、一歩でも、少しでも進歩していく人のほうが、生きているという感じがします。
勝君のやる気、先生は大いにかってます。
但し、そのあとの努力する態度は決して失わないように。
日記本文最後の「無理なことことだと分かっていても」という下りは本当におかしい。
はじめから無理だと分かってるなら誰もやらないよ、と思わず突っ込みたくなります。
それにしても、水間先生のコメントは素晴らしい。
当時から私が口先だけのお調子者であることを見抜いていて、さりげなく注意してくれている点はさすがという他はありません。
もちろん、当時の私はそんなことなどまったくお構いなしだったのですが。
明日、1年半ぶりに北海道に帰省します。
今両親は札幌にいるので、雪の中を夕張や大夕張まで行くことはないと思いますが、私にとっての帰省は大夕張に行くことと気持ちの上ではなんら変わりません。
北高時代の級友達とも、久々にささやかな同窓忘年会をやろうということになっていますので、楽しみです。
歳を重ねる事に、人の輪の大切さをしみじみと感じます。
仕事の忙しさや困難さで、なかなか振り返っていたり、関わっていたりする余裕がないのですが、ふと故郷というものの人に与える精神上のインパクトの大きさを思うことがあります。
どうか皆さんもよい年末を。
プロテスタントの子孫がイスラムの子孫に無差別テロで大きな打撃を受けたという、忘れ難い2001年のクリスマス・イヴの日に。
(2001年12月24日 記)
当時、鹿島東小学校の先生と。子どもたちが作った番組が、1973年7月『閉山特集』として鹿島東小学校の校内放送として流れました。