夕張市立図書館鹿島分館

19162

 宝町にあった鹿島図書館。

 写真の右下には、当時通勤や仕事で使われていた二輪のオートバイが停まっている。

 

 この建物は、昭和35年に新築以降の建物で、自分が利用したのもこの建物。

 

 本通りから宝町の図書館に向かって入って行くと住宅と図書館の間は、かつての住宅の跡地なのか、写真のように空き地があった。

 

 下の大夕張の先輩たちの投稿を読むと、図書館というものを理解し、上手く生活に役立てていた。

 

 

 自分も鹿島中学校帰りによく寄っていた。

 が、大人むきの本が多かったようで、児童書が好きだった自分は、静かな館内で本を探した記憶はあっても読んでいた記憶はあまりない。

 図書館で学習するというほどの、勉強に対する熱意もなかった。

  

 ならば、なぜ『よく寄っていた』のかというと、『週刊ベースボール』という野球雑誌が毎週入るので、それをお目当てに通ったのでした。

 

 当時は、王、長嶋を主軸に巨人が昭和40年から始まるV9時代の全盛期。

 

 巨人を中心に、金田、近藤、桑田、張本など、各球団のエースや強打者がメンコ(パッチ)の図案になり、少年雑誌のページに登場した。

 

 当時としては、そんな野球選手たちの数少ない情報を仕入れる貴重な場所だった。

 

 

 

 

【夕張市立図書館鹿島分館】

  • 昭和30年2月1日>>宝町旧鹿島支所あとに夕張市立図書館鹿島分館開設。本館より300冊分冊し職員2名でスタート。
  • 昭和35年12月15日>>鹿島分館新築。
  • 平成2年3月 >>鹿島図書館解体。
白黒写真に着色した画像

 

宝町の鹿島図書館

宝町の図書館で 【丸山直記】

 

 宝町の図書館には私の記憶が正しければ、鹿島中学校の音楽の先生でした米谷先生の奥様が、結婚前に司書をされてました。

 

 米谷先生は、みなさんもご存じかと思いますが札幌の白石東高校で吹奏楽を指導され、すばらしい業績をあげられました。

 退職される前はよく東京に大会でいらっしゃり、教え子たちが集まり昔話をしました。

 

 色々痛快なことがありました。

 先生は音楽室で良くオペラのレコードにあわせて練習していました。

 私が憶えているのはヴェルディのリゴレットでした。

 先生はバリトンでしたので主人公になりきっていましたね。

 

 また先生が合唱団のメンバーでテレビに出演され、ソロを歌われたのを憶えています。

 出演の数日前からはマスクをして小声で話していました。

 

 あれは大夕張では一大事件だったのです。

 
 生徒達が休んでテレビを見ていたというのが問題視されましたが、芸術に接することは決して悪いことではないと言う校長先生の判断で一件落着でした。

 

 米谷先生はそのことがとても感激したと後に語っていました。

 

 

宝町の図書館 【久々湊眞一】

 

 宝町から千年町へと抜ける途中に、図書館がありました。

 志村パン屋さんの近くです。

 私は、鹿島中2年の頃から頻繁に利用するようになりました。

 「学校から帰宅する途中で寄り、学校の宿題を片付けてしまう。家に帰ったら遊びに集中する。」

との、不謹慎な動機でした。

 

 動機は不純でも環境が育ててくれるものってあるのですね。

 「回りに迷惑がかからぬ様、静かにしなくては」

 「本は大切にしなくては」

等のマナーの面。

「こんな本があるのか」

「ずいぶん多くの人が、この本を読んでいるんだなー」

等の興味の広がりの面。など、場所を借りただけなのに、新たな視点を多々教えて貰ったような気がします。

 

 ある時、一緒に利用していた友達から

「あの人、知ってるか?」

と小声で話しかけられました。

 時々見かける人でしたが、名前を知らなかったので首をふると。

「星山忠二(漢字合っているかしら?)さんだよ」との答え。

「すごい秀才である」

と先輩方から名前を聞かされていた人でした。

 

 星山先輩は、分厚い辞書を2冊テーブルに広げながら、何かを書いていました。

 当掲示板で星山先生と子供さんに関する消息を読みながら、この時の風景および憧憬の気持ちを思い出しました。

 

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