山麓の谷間に花咲かず-大夕張閉山初期のあゆみ

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 夕輝文敏さんが、小説『タイムカプセル』で、閉山後の大夕張の明るい未来を描いてみせた

しかし、実際は上手くいかなかった。

 

 閉山という地域崩壊の危機状況に直面し、現実に対応しながらその後の大夕張をよりよい方向に持って行こうとして努力した人々がいた。

 

 ダムによる故郷喪失という状況の中で残されることになる『ふるさと誌 大夕張 鹿島で暮らした日々』(H9)に、閉山時『大夕張対策委員会』の事務局長として奮闘された鹿島東小学校教諭佐々木定男先生の寄稿がある。


「山麓の谷間に花咲かず」(閉山初期の歩み)

   【佐々木定男】

昭和48年8月、夕張岳の山麓に衝撃が走った。

三菱大夕張の閉山が決定したのである。

 

マスコミは、

「由仁町と長沼町が消滅するほどの規模である」

と書き立て、1万3千人が住む町の地域崩壊が始まろうとしていた。

 

不安と混乱の中で〈再生大夕張〉を目指し、新たに住民運動の組織が誕生した。

「大夕張対策委員会」である。

 

当時、私は鹿島東小学校の教師であったが、設立準備委員会のメンバーには加わっていた。

 

ところが、晴天の霹靂というのか、事務局長の要職に就任を要請されたのである。悩んだあげくこれを受諾し、直ちに総則と活動方針案の作成に着手した。

 

しかし具体的な問題があまりに多かったが、ともかく紆余曲折を経て行動を開始した。

 

最初に住民の要望を整理することから始まったが、生活基盤に密着した問題が圧倒的で、緊急的な事項は三菱礦業所や行政の理解と協力を得て解決することができた。

 

しかし公共施設と企業誘致は想像以上に難しかった。

 

本道出身の政治家を始め、商工会議所、市行政のバックアップを受けながら東京や札幌に足を運んだ。

 

折しも不景気の前兆期、要請・陳情行動は空回りの連続であった。

 

そして降って湧いたような国際イベント〈ICA〉の開催は、商工会と町内会の全面的な協力によって成功したが、基本的な考え方の相違が一致せず、大夕張活性化に寄与する目的で派遣されて来たコンサルタント〈ICA〉との決別は辛かった。

 

市当局から誘致活動の連絡が入ると委員長・副委員長(故中島正雄さん)・と3人で飛び回った。

 

刑務所・私立大学・自衛隊などの誘致を始め、ゴルフ場やスキー場の開発造営、果樹園と牧場の造営など、積極的に推し進めたが、時の流れは大夕張を変えるまでには至らなかった。

 

広大な国有地を要しながら地形の欠陥が邪魔をしたのである。

 

〈帯びに短したすきに長し〉のたとえだったのだろう。4年後、シューパロダムのかさ上げ問題は市役所を通じて打診はあったが、この計画が実現されるとは考えもしなかった。

 

私は五年間この業務に携わって、閉山後の『新しい町興し』が、いかに困難であるか身を以て体験した。

 

業務を執行する過程で苦渋の選択を迫られたり、焦りと苛立ちで体調を崩したりしたこともあったが極限の苦しみから私を救ってくれたのは、豊かで美しい自然と、人々との温かくて優しい心のふれあいであった。

 

私達の去った後、今日までご苦労された住民の皆さんに心から敬意と感謝の気持ちを表したい。

 

街は湖底に沈んでも、あの懐かしい〈大夕張音頭〉のリズムは、生涯忘れることはないだろう。

 

「シューパロに風渡り、流れもぬるんで春がくる」

 

(元大夕張開発対策委員長 事務局長)


大夕張炭鉱出身者が集う「ヤマの会」というのが札幌で開かれていた。

祖父などは、札幌に出てきてから毎年必ず出かけていた。その名簿は今も手元に残されている。

2000年頃、北区のサンプラザホテルで行なわれた「ヤマの会」に、一度だけ参加させてもらったことがあった。

 

その時、佐々木先生にお会いした。

初対面で緊張する私にむける温厚な笑顔に人を包み込む包容力を感じた。

帰り道、佐々木定男先生の車に同乗させていただいた。先生の自宅は、私の住むところのすぐ近くでもあった。

 

玄関口で、奥様であり私の鹿島小学校4年~6年生の時の担任だった佐々木マサノ先生と御挨拶だけだが交わすことができた。

 

大夕張に住んでいたころは、千年町の教員住宅に何度か級友と遊びにいったこともあるマサノ先生だったが、大夕張を出てからはそれが最初で最後の出会いとなった。

 

「ヤマの会」は、聞くところによると、だいぶ前に会員の高齢化で開かれなくなったという。その後は、個人的なつながりによる少人数での集まりもあったようだが、それも今はほとんどなくなったという。

 

地下鉄東西線宮の沢駅近くにあった佐々木先生のご自宅もずいぶん前に取り壊されて今はない。

 

閉山時、大夕張で鹿島東小学校に勤務されていた縁で、閉山後の対策に関わった佐々木先生の文章を読みながら、個人的な私自身のそんな思い出とともに、そのご苦労を偲ぶばかりである。

 

 

昭和61年映像記録『大夕張の面影』より

写真は、明石町のバス停と夕張市園芸センターの看板。昭和50年(1975年)に明石町炭鉱住宅跡に作られた施設。昭和61年10月に撮影された映像記録『大夕張の面影』の中で、住宅地跡に建ち並ぶビニールハウスの温室と、道路沿いに建つ園芸センターの建物がわずかだがコマに入り込んいて、その様子を見ることができる。

 

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