大夕張っ子の茶飲み話
ある日、あるとき昔の子どもたちが、チャットをしていた。
ピーヒャラ、ピーヒャラ笛の音と花火の音。
1950年代に生れた人たちのようだ。
話は、お盆の話から花火の話に・・・・。
みなさん、こんばんは。静かなお盆をお過ごしでしょうか。
炭鉱も石炭で湧いた景気いい時代でした。
暗くなりだすころから大勢の大人や、子どもたちが集まりだし、広い鹿島小学校の校庭でも、足元が見えないくらい集まりました。
子どもの盆踊りが終わって、大人の盆踊りは朝まで踊ってた。
今は、あんな炭鉱街の盆踊りはどこにも有りませんね。
この狭い街に、よくあんだけの人が住んでいたかと、今思えば不思議な感じ。
近所のおじさんが、身体に電飾の光、ネオン飾りを身にまとって踊ってた。
子どもながら、「きれいだあ」と思って見てました。
炭鉱ならではの盆踊りだったね。
さすがに、それでは礦業所も仕事に差しつかえるので、ある時期から「盆踊りは夜10時まで」という時間制限が入ったようですよ。
神社の境内からグラウンドまで、つづら折れの坂道に電飾がともって、夏祭りの雰囲気を盛り上げたね。
ふだん学校で知っていた学生服やセーラ服姿しか知らない先輩たちが、みんな浴衣を着てね、踊っていたのも、なんだかいつもと違う特別な感じがしてた。
そうそう。
でね、そんな先輩達が仲よく手をつないで、鳥居から神社の坂を登って行くのを見ているやつが、必ずいてね(笑)、
「◯◯さんと△△さんが、神社山に入っていった!」という噂が、あっという間にワルガキどもの間を駆け巡り、皆の知るところとなる。
恋の花もいっぱい咲く季節だったよね笑。
・・・ちょっと話題を変えて😠
学校下の空き地にたくさんの店がでましたね。
昔は神社下の鳥居からグラウンド脇の参道に店が並んだこともあったそうですよ。
金魚すくいに、お面。
ヒヨコ、亀など小動物の販売、型抜き、スマートボールたのしかったあ。
ヒヨコ、亀、飼った。
でもうまく育たなかった。一度亀に逃げられて、懸命に探したら沢の手前で死んでいたという、可哀想なこともあったなあ。
色つきヒヨコを飼った友達のノブ君は家の前で鶏になるまで育ててた。
大きくなったらツブそうと思ってたらしいけど、「愛着が湧いてきて寿命がくるまで育てる」といって大事にしてたな。
的あての思い出・・・。
景品めあてに身を乗り出してゴム鉄砲うつけど、なかなかあたんなくてねえ・・・ついついテキヤの親父の調子いい言葉にのって、お盆の少ない小遣いも、全部巻き上げられて、ガッカリして帰った事も有りました(笑)
お盆といえば、8月15日の夜、神社から上がった花火はきれいだったよね。
三菱のマークのしかけ花火が見事でした♡。
花火は、河川敷とか港湾敷地で打ち上げているけど、あんな山の中で盛大な花火、
よく山火事を起こさなかったもんだと思うよ。
行事の時にも花火が上がっていたような気がするわ。
メーデーとか、運動会とか。
何かあるときはお知らせの花火が上がっていたのではないかしら。
そうそう昼花火。
落下傘花火ってよんでた!
中には、落下傘が落ちてくる花火があったんだ。
パンパーンと花火が上がると家から飛び出して、落下傘を拾いにいった。
スキー場とかのあたり探すんだけど、なかなか拾えなくて、薬莢みたいな紙屑ばかり、宝探しみたいなもんだ。夢中になって探したね。
ようやくみつけた落下傘、どうだって見せて見せびらかすと、みんな触らせろって。
まあ、すばしっこくて足の速いやつ多かったよな(笑)羨ましかったぜ。
みなさんの思い出ばなしは、際限なく・・・延々と続きますので、いったんお開きとさせていただきます。
機会があれば再登場があるかもしれません笑。
山神祭をふりかえる形式で行なわれた実際の座談会は、下に。
こちらは、『鹿島で暮らした日々 大夕張』(H9)所収(一部)のものです。
インターネット草創期、『ふるさと大夕張』のチャットで、何回か大夕張の話題を語ることを目的にチャットを開いたことがありました。
大夕張という縁だけで、年齢も性別も違う人が集まりました。
緊張感を持ちつつ、何処か懐かしく和気藹々とした雰囲気で進んだことを覚えています。
その時の記録が一部残っていて、それに近いものを再現しようとした『つくりごと』です。
もちろん話の中味自体は『つくりごと』ではなく、『みんなの思い出』です。
実際の人物にモデルはいません。念のため(そんなこと思う人もいないと思うけど)笑