明石町の歴史
明石町の辺りは以前は、戦前は農場と呼ばれ、その後、第一農場とよばれていた(第二農場は、桜ヶ丘対岸→大夕張ダムで水没)と呼ばれていた。
このあたりには、戦争前後の話として、畑地として土地をかり、笹刈りから、大根の種まき、収穫まで家族総出で荒地開墾をしながら、食料を得ていたという祖父の話を聞いたことがある。
そこに、戦後、炭鉱の発展による鉱員の増加による住宅難を解消するために、昭和24年に春日町や常盤町などとともに、炭鉱住宅が建設され、明石町ができた。
「明るい石炭の町」として命名されスタートした明石町だが、当初、駅はあっても、道路は夕張方面はもちろん、千年町ともつながってはいなかった。
明石町住民は陸路で大夕張駅方面に向かうには、旭沢にかかる5号鉄橋を渡るか、吊橋を渡って常盤町にいく他に方法がなかった。
そのため、火災などが起きた際の不安など、強いものがあったそうだ。
以後、年表風に書いていくと次の様な経緯をたどった。
昭和26年(1951年)に、三菱が650万円の資金を出して、千年町と明石町の間を結ぶ道路工事に着手し、昭和27年10月に明石橋が竣工した。
昭和31年(1956年)には大夕張地区内を走る山内線が運行され、「礦業所前-明石町」を三菱バスが一日数本走り、利便性が増した。
昭和34年(1959年)には、白金橋が完成し、奥鹿島への入口、夕張岳への登山口となった。
昭和35年(1960年)7月に、明石町の高台に夕張鹿島高校(S40年から夕張東高校)が新築移転された。
明石町駅は、夕張岳登山に訪れる人たちや、鹿島(夕張東)高校に通う通学生たちが利用する玄関口ともなった。
そして、明石町駅より山側の夕張東高に向かう坂道沿いに、教員住宅を中心に建物がいくつも建ち並んだ。
昭和37年(1962年)10月には、鹿島~南部間の道路が開通した。
明石町から先のシューパロ湖畔の砕石が敷かれた道路を、砂埃と石をけたてて走るバスやクルマに身体を揺られての乗り心地なながら、それでも大夕張の住民は念願がかない大喜びだった。
札幌や夕張に急行便(夕鉄)、特急便(三菱)を利用して往来できるようになった。
同時期、大夕張ダムが完成しシューパロ湖が道立芦別富良野公園に加えられ、夕張岳を仰ぐ湖の景観に観光地としての期待が寄せられた。
昭和44年(1969年)、明石町から鹿島明石町に町名が改正。
昭和45年(1970年)には戸数234、人口815人を数えた。
しかし、昭和48年(1973年)に三菱大夕張炭鉱の閉山。
人口が激減し、昭和50年(1975年)に明石町駅前の広大な炭鉱住宅跡地に大夕張地域振興対策の一つとして夕張市園芸センターができる。
大夕張(二股)ダムのかさ上げの話が、シューパロダムへとつながり、住民は立ち退くこととなった。
平成2年(1990年)の明石町の戸数は10戸、人口19人だった。
現在は、明石町駅の後ろの高台に見えた夕張東(鹿島)高校の校舎とグラウンドの広い跡地にできた『鹿島眺望公園』から、かつて見た眼下に見た景観に変わり、シューパロ湖と夕張岳の雄大な景観が目の前に広がるばかりである。