昭和32年 横綱千代の山・栃錦 大夕張巡業
横綱千代の山と栃錦の巡業風景。
千代の山の横綱土俵入り。(円内は栃錦)
昭和32年(1957年)8月2日、この日は金曜日だ。
平日ではあるが、夏休みの真っ只中。
神社下の教会横にあった土俵に大勢の人達が駆け付けた。
食い入るように見つめる土俵下の人達。その後ろに見える顔、また人の顔。
写真に切り取られた人の数をざっと数えても200人はくだらない。
よほど天気の良い日だったのだろう。山の斜面には夏の直射日光を遮るものはなく、みな頭にほっかぶりの手ぬぐいをし、日傘をさしてしのいでいる。
テレビ放送もまだ一般的ではなく、ラジオで大相撲中継を聞いた時代。
見たことがなかった名力士の姿に、歓声を発するというよりも、息を吞んで見つめているように見える。
土俵上の千代の山は、1951年に横綱昇進以来、1959年に引退するまで、幕内優勝6回(横綱としては3回)を果たした。全盛期をやや過ぎていたとはいえ、当時、1月場所で全勝優勝を遂げていた。
北海道松前郡福島町出身。後の横綱千代の富士と、同じ小学校、中学校出身。
当地には、郷里が生んだ昭和の大横綱二人の記念館もある。
横綱時代の化粧廻しには葛飾北斎の『富嶽三十六景 神奈川県沖浪裏』、太刀持ち・露払いのものには俵屋宗達の「風神雷神図」が描かれていたという。
一方の横綱栃錦。
1955年1月場所から横綱を務め、若乃花が横綱に昇進した1958年以降は、毎場所のように2人で優勝を分け合った。
1960年で引退するまで、その人気は「栃・若時代」とよばれ、この頃のテレビの一般への普及時期とも重なって、国民の間で人気が広く大いに盛り上がった。
大夕張を訪れたこの年、昭和32年(1957年)は、まさに大相撲黄金期を迎えるその前夜ともいえる時期だろう。
66年も前の出来事ながら、目の粗い印刷写真からでさえ、色がつくと不思議と見える世界が違ってくる。
大夕張炭鉱労働組合の『二十年史』(昭和41年発行)は、この両横綱来山でわき立つ炭山の人たちの様子を次のようにユーモアも交え描写している。
『二十年史』に見る横綱千代の山・栃錦の巡業風景
昭和32年、初秋のはじまった秋晴れの8月2日、山神社下の特設土俵で千代の山、栃錦一行の大相撲が炭山中の人々を集めて、花相撲を交えながら、ヒイキ力士に拍手応援がとんでいた。
小学生であった霜降君(現幕下 朝登)が栃錦の胸を借りて土俵際に追いつめると、郷土期待の声援を受けて、顔を真っ赤にして頑張る。
秋晴れの陽はサン、サンと土俵上を包つつみ、土手の上をダン、ダンに削りとった特設見物席は人の波が重なりあうように神社の山頂までグルリと花が咲いたように広がっている。
横綱の土俵入り、取り組みがあるとヂイさん、バーちゃんが、孫を忙しく抱き上げて千代の山、栃錦の肌に触らせる。
「横綱にさわったから、キッと丈夫な子に育つ」
と、祖父母は目を細めて安心したように、土俵上の取り組みに熱中する。
小兵で強かった栃錦に若い女性の人気が集まったが、砂っかぶりで仕切りをする真後ろにいて、クローズアップされた横綱のお尻をまともに見て、ブツ、ブツとニキビの抜けなた肌が、抱いていた理想とはおよそ見当違いでガッカリした娘(ヒト)もいたようだが、父親が寝ずの番をして取った場所であれば文句もいえない。
幼い小学生の見た大夕張巡業 【准ちゃん】
半世紀近い昔。旅客機もまだよく飛んでいない時代。夕張山麓の、ど田舎の小学校の、その横にあるチンケな土手に大相撲が来た。
この写真の「土俵入り」は、まぎれもなく現実の出来事だった。
この土俵は、屋根を支える柱の間隔が狭くて、土俵下に落下する力士は皆、柱への激突を避けて不自然な体勢のまま観客席に落下した。
重くてでかい力士が次々と足を広げて背中から観客席に飛び込むのだった。
幼い小学生は、けが人が出ないよう祈る気持ちでこの様子を見ていたのだったが、不思議と、誰も怪我することなく終えたこの日の大夕張巡業なのだった。
当時鹿島東小学校3年生だった高橋さんの記憶に残るこの日の様子は、『大夕張つれづれ61』に。
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