大夕張つれづれ■大相撲がやってきた頃■|高橋正朝 #61

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 子どものときの大夕張時代は、7月の下旬の初めごろに夏休みがスタートしていた。私が鹿島東小学校3年生の夏休みのとき、大相撲の一行が大夕張にきた。

 このホームページの年表をみると昭和32年(1957年)となっているので、記憶とは一致している。

 夏休みに入ってからのことではあったが、日付までは覚えてはいない。年表をみると8月2日と記載されている。この年表一つを見ても、よくこれだけ調べたものだと感心する。このホームページを立ち上げた飯田雅人さんには脱帽します。

 大夕張の春から夏にかけての、何かの行事には雨が降ることが多いが、この大相撲巡業のときはよく晴れていた。

 年表には2人の相撲取り、横綱千代の山、栃錦の名前が出ているが、大関朝汐も来ていた。朝汐の絶頂期に重なり、眉毛が濃く、胸毛もあり、昭和32年(1957年)の春場所後に大関になり、そのこともあってか、朝汐が土俵に上がると大歓声だった。

 少年マガジンの創刊号の表紙は、朝汐と少年の写真だった。少年サンデーの創刊号の表紙は、長嶋茂雄と少年である。長嶋茂雄の人気もすごかったが、朝汐と共通するのは濃い眉毛と胸毛だが・・・・・・。

 朝汐は、それから2年後の東宝映画、「日本誕生」にも出演している。ウエブでチェックしたら、初公開は昭和34年(1959年)10月25日となっているから、千歳町の映画館でみたのは、翌年だったように思う。先生の引率のもとに全校生徒の映画鑑賞だ。

 ただし、低学年の小学生には、内容はわからなかっただろうと思う。だから、そのときに低学年も一緒だったかどうか・・・・・・この記憶は怪しい。

 天照大神(原節子)が天岩戸に隠れ、天宇受女命(音羽信子)がセミヌードでにぎやかに踊り、何事かとおもった天照大神が、岩戸をそっと開けて覗き見ようとしたときに、朝汐太郎扮する手力男命の膂力で岩戸を開けてしまう・・・・・・。この映画、「日本誕生」は私にとっては、少しも面白くなかった。

 地割れや、火山の爆発で溶岩が流れるシーン、ヤマタノオロチが現れるシーン、三船敏郎が口移しで酒を相手に飲ませるシーン(観客席でウワーという喚声があがる)、最後の白鳥が空を飛ぶシーン、などを断片的に記憶しているが、三船敏郎が、倭建命と須佐之男の2役をしているせいか、ストーリーがよくわからず、どちらかと言うと私には退屈だった。

 監督は稲垣浩である。

 数カ月遅れで、栄町の協和会館で、三船敏郎主演、稲垣浩監督の「無法松の一生」をみたが、この映画も私にはつまらなかった。

 ベネチア国際映画祭で、金獅子賞を受賞しているから、名作なのかもしれないが・・・・・・。

 それ以降、稲垣浩監督の映画はみていない。

 話を、大相撲の大夕張巡業にもどすと、このときは、若乃花は来なかったと思う。前年の9月に、長男がチャンコ鍋で大やけどをして、なくなっているせいかもしれない、と子供心に思った。

 大相撲が、大夕張に巡業しにきたのが、大夕張にとって最も景気の良い時期だったように思う。

 その年か、翌年だったか覚えていないが、冬季に三波春夫がきたこともあった。サーカスもきた。

 昭和34年(1959年)に皇太子と正田美知子さんが結婚したが、子供だったせいもあるのだろうが、とにかく明るく感じた時期だった。

 政府としては、エネルギー政策をすでに転換しており、昭和34年(1959年)には構造不況業種に位置づけている。

 当時の石炭産業は大産業であるから、大夕張の好況感はすぐにはなくならず、大人はともかく、子供にとっては忍び寄る不況のことなど知る由もなかった。


高橋 正朝 ( たかはし まさとも )2016/07/15 _ 12:38:10

昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住


大夕張つれづれ

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