鹿島東小学校の運動会と出店 | 高橋正朝 #145
私の年代では、大夕張での運動会は、5月下旬から6月上旬にかけて実施された。 だから、六十数年前の今ごろは、運動会の練習をよくやっていた。
鹿島小学校、鹿島東小学校、鹿島中学校の運動会は、一応、日程は被らないように調整されていたようだ。
大夕張つれづれ# 16 〘 銀色に輝く物体 〙で触れたことだが、私が鹿島中学校に入学した年は、運動会はあったが、翌年から、鹿島中学校での運動会は取りやめになった。
そのかわり、3日間ぐらいの体育大会になった。
私が鹿島東小学校に在席していた当時は、計画上、3校の運動会の実施日は別々だったはずだ。
というのも、鹿島小学校の運動会を見に行ったことが2〜3回あったからだ。
鹿島中学校の運動会を見に行ったことはなかったが、運動会をする朝は、花火を打ち上げるので、その音で運動会が開催されたことがわかった。
運動会の練習をやったことは記憶にあるのだが、100m 競走とか、リレーとか、障害物競走とか、玉入などの練習をやったのかどうかハッキリとは思い出せない。 でも、それらの練習はやっただろう。
借り物競走と玉転がしは、運動会の競技にあったかどうかは記憶にはハッキリしない。
マンガでは、内地では、パン食い競走の場面を面白おかしく描いているが、我々の運動会ではパン食い競走はなかった。
運動会の練習でハッキリ覚えているのは、マーチに合わせての隊列行進、それとラジオ体操の練習である。 この2つは、数回行われた。
私は、昭和23年11月生まれだが、東小学校低学年時には、運動会の日には、出店が並んだ。
とはいっても、それらの出店は、坂に沿った場所と、その坂に近いグランド寄りの場所だけに限られるから、20店あったかどうかである。
それが、4年生のころは半減した。
飯田さんが編集した、〘 大夕張の人口推移 〙のグラフを見ると、昭和30〜35年が、人口のピークである。
大相撲の巡業があったのが、昭和32年であり、大夕張の景気がそのときがピークだったようだ。
私が、鹿島東小学校5年生のとき、明石町で初めて見たある出来ごとがあった。
当時あった服部商店の向かい側、夏休み中に東小学校の生徒がラジオ体操をやる広場、そこの広場で赤いハチマキをした人たちが、30人ぐらい集まって首切り反対のシュプレヒコールをやっていた。
それを見て、どうりで、運動会のときの出店が少なくなったり、祭りのときなどに、鹿島小学校のグランドには出店が2周りも並んでいたのが年々減少している理由がわかった。
何年生のときだったか覚えてないが、大夕張の景気が良かったころ、鹿島小学校の運動会を見に行ったとき、ちょうど男子の 100m 競走だった。
1人がズッコケた。
驚いたのは、そのズッコケた男子、すぐに起きあがって走り出し、1着になってしまった。
後年、私が鹿島中学校3年生になったとき、I 組の同級生になったチャンボこと松田久司さんに、鹿島小学校の100m 競走のズッコケた男子を目撃したことを話したら、松田久司さんがその当人だった。
彼とはウマがあった。
10年ぐらい前、鹿島東小学校4〜6年生、鹿島中学校3年生のときの同級生だった女子生徒に会ったとき、
『 2人は、休み時間にはいつもツルンでいたもネ 』
と、からかわれてしまった。
彼の消息はまったくわからない。
誰か、知っている人がいたら教えてください。
(2023年5月20日 記)
(筆者略歴)
昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。
メール宛先:tkhsmstm@hotmail.co.jp
運動会の記憶というと・・・
がんばって思い出そうとしても
当日いつもより早く学校にでかけ
グラウンドに敷かれたオガクズのひんやりとしたやわらかい感触と木のにおい
いつも違う新鮮な気持ち
ラジオ体操で見上げた時の青い空と山の稜線
先生が乗った校庭の演台の足と、話を聞きながらグラウンドに指で描いていた落書き
鼓笛隊の衣装や姿がただただかっこよかった
そんなしょうもないことばかりの断片しか浮かばない
競技でがんばる人の姿に興奮したり努力する気持ちがあったのか、忘れてしまったのか
そんな子だったなあ、とそう思う。