大夕張へ向かう三つの道(1)

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鹿島小学校にあった郷土室の資料に、昭和2年頃大夕張に向かう『むかしの道ろ』という掲示物があった。

その解説文には次のようにある。

 

 

むかしの道ろ(昭和2年ころ)

むかし、鹿島まで、3つの道路がありました。

 一つは、南部の若葉鉱(今はない)から、山道を通ってきました。

 もう一つは、万字炭山からの山道です。

 シューパロ川の淵を通る道は、一番新しい道路です。

 

 この道には馬鉄といって、馬のひっぱる鉄道がありました。

 

 

鹿島小学校郷土室での掲示物(昭和43年12月1日。開校40周年を記念して製作)

 上の地図と文章は、鹿島小学校の40周年を機に昭和43年(1968年)に作成されたものだ。

 

 

 小学校3、4年生で行なう『地域学習』の教材の一つとして、当時の教職員が製作したのだろう。

 

 自分は、この年すでに中学生になっていたので、これを使って勉強した記憶はない、が、あったとしても覚えいるかは、あやしい。

 

  

 昭和2年(1927年)ころ、草創期の大夕張。

  

 シューパロ川に沿っていく道は最短距離であるにも関わらず、道の行く手は困難を極めたという。

 

 山と深い谷を流れる川筋に沿った道は、資材を背負った馬が断崖絶壁の崖から転げ落ちたこともあったという話も、どこかで学習した覚えはある。

   

 昭和30年代、子どもの頃、「山の中の大夕張から山の向こうの夕張と岩見沢にでることができる」とは、親たちから聞いたことがあった。

 

 

 それは官行の道をまっすぐ進む道路ではなく、礦業所の裏山の方へ入っていったという。

 

 そんな話を聞いても、当時は、どこをどう歩けばどこへ出るのか、さっぱりイメージできなかった。

 裏山に入っても、やま、やま、山が続く景色しか想像できなかった。山のどんずまりに住んでいるという自覚は子どもなりにあった。

  

 今、航空写真や地形図で大夕張と夕張の間(住所的には夕張市遠幌になるようだ)周辺を見てみてみると、川筋に沿って、或いは尾根伝いに辿っていくと、確かに夕張丁未、岩見沢万字の方に出ることができそうな気がするが、実際に歩くとなると容易いことではないだろう。

 さすがに、現地を踏破しようというそんな無謀な企てを図る体力も気力はない。

  

 今は地図を眺めながら、空からから『むかしの道ろ』の痕跡を辿って楽しんでいるが、原始の森に帰った大夕張に向かう今も昔も、先人達の困難さは、変わらなかったことだろう。   

 

  

 

(2021年6月26日 掲載)

(2023年7月14日 更新)

 


備忘録

 

 


 

 

 

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