大夕張に向かう三つの道(2) 本流越

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 現地を踏破しようというそんな無謀な企てを図る体力も気力はないので、地図を眺めながら、空から眺めて遊ぶ時間です・・・。

   

 小林政雄著『夕張風物抄』という本の中に『本流越』という名で、夕張市と大夕張との中間に、位置する山が出てくる。

 

 夕張市小松の西方4キロメートル、海抜875メートルの山と紹介され、夕張市から見たイラストとともに掲載されている。

 

  昭和36年1月15日に書かれた文章だが、その中で、「冬にはこの山を越えて、大夕張越えが楽しみである」と締めくくられている。

 

 

 この標高875メートルの山は、大夕張と夕張のまさに真ん中に位置している。

 

 下はGoogleMapから地形図表示して、スクリーンショットを撮った写真である。

 

 大夕張と夕張の位置を画面の両端に置き、本流越と八百五十の頂上部分を模式的に円で色付した。

 薄い黄色が「本流越」で、薄い赤色の部分が「八百五十」とよばれた山である。

 

  

 そして、「本流越」に源流を発した川は、北は岩見沢万字、大夕張鹿島へと沢をつくり、東は夕張本町を流れるシホロカベツ川に合流、南は南部遠幌加別川へと流れをなす。まさに四方八方「本流越」の呼び名にふさわしいだろう。

  

 この山の尾根を越え、川に沿った道を、文字通り山を越え谷を越えて下った。

 

 大夕張の小学校の訓導だった祖父の話にも、『夕張越え』の話が出てくる。

 

 昭和18年頃、小学校の行事で、大夕張から夕張に出て、学校に戻ったというスキー行事での強行軍の話が出てくる。興味のある方は、こちらに写真と記事があるのでご覧になってください。

   

 大夕張視点からは『夕張越え』、夕張視点では『大夕張越え』となる。

 

 「北炭」と「三菱」で何かと対比された夕張と大夕張だが、これも本町側と大夕張側で言い方が違うのが面白い。単なるゴール地点の呼び名だといえばそれまでだが、そんなことをつい持ち出したくなる。

   

 

 この辺りで標高700メートルを超えるのは、「本流越」頂上付近。

 それと、標高600メートルの尾根でつながった「八百五十」。

 そして、『八百五十』の頂上を北の頭にして、700~800メートルの高さの峰が南部のあたりまでシューパロ川の西岸に壁のように立っているのだ。

  

 このシューパロ川西岸の山々は、シューパロ川沿の道路開発が昭和37年になって実現したというのも頷けるような気がするが、ここに今から100年近く前に石炭輸送のため鉄路を通したというのも、すごいことだとあらためて思う。

 

  

 800メートル超の高さの山々が続く西側と、シューパロ川とそれに続く夕張岳の山々に挟まれた河岸段丘の大夕張の地に到達するには、やや低くなった八百五十の北側を周り込んで行くのが、当然だったのだろう。

 

 前回の鹿島小学校の『むかしの道ろ』の掲示物もそれを正確に表している。

 

 

 この地形的なことは、等高線でみると一目瞭然。

 リンクを貼った先の地図には、手描きで等高線が色分けしてある。

 JUNさんが中学生の頃、故郷を思いながら、等高線にそって色塗りしたという地図、それを見ると、よくわかる。

 

 

 

  

 等高線に沿って鉛筆で色塗りしていたJUNさんの気持ちの一端が、今更ながら感じることができたような気がする。

 

 

 下に『本流越』を中心においたGoogleMapへのリンクを貼っておいた。

 地図を眺めながら遊ぶ時間が好きな、興味と関心のある方は、ぜひお楽しみを。

  

 

 

 

 

 


備忘録

 

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