ダニ峠の物語 伝説狐つき
むかしむかし、大夕張が南部で、その南部に大夕張炭坑があったころの大正時代のはなし。
ダニ峠で行方不明になった数え年五歳の男の子が発見されるまでの顛末。
『二十年史』(大夕張労働組合)の第一編南部大夕張時代から蒐集。
伝説 狐つき
大正末期、南部にも流行歌が唄われ始めた。
逢いたさ 見たさに恐さを忘れ
暗い夜道をただひとり・・・・
いつも呼ぶ声忘れはせぬが
出るに出られぬ籠の鳥
当時の女性が自由を奪われていた悲しみをうたいあげたものだろうが、この歌は若い女心を打つ世相でもあった。
山本料理店にも女給さんが五人になったし、若葉にも飲み屋ができて、女給が二人いる。
飯場の若者達は小銭がたまると、めざす女性のいる料理屋に通い続けた。
狭い谷間で人の出入りの少ないここでは、重箱長屋や、模範長屋(新長屋とも言った)のおかみさん達の茶のみ話しになる。
ミッちゃんという万字炭山から来た女給さんが○○飯場の若いもんと、そいとげなければ死んでしまうというんで、飯場の親分が仲にたって一緒になるんだとか、あしたの山ぶどうや、きのことりはどこにするとか、山の幸にも恵まれている。
フキ取りには北部まで足をのばす。
ぶどう酒でもつくるかなどと、たまには亭主ののろけ話もでる。
夕方のことだ。
二股の佐藤さんとこの雄三が、遊びにいったままもどらないと労務に届けられたのは8時を少しまわったころだ。
労務から警察、消防、青年団と炭山中にいち早く知らされた。
二股にある会社の事務所まえに捜索隊が勢ぞろいして、探索の方法、番割が決まると、カンテラをもつ者、ちょうちんを持って来る者、懐中電灯をてらす者等、三々五々、闇の中にすいこまれていく。
ダニ峠・・・青葉峠・・・(現在の大夕張ダムの鉄道側のトンネル上)に番割された行夫たちは、魚つりや、水泳ぎに何回かきた道とはいえ、気持ちはあまりよくない。
ここは熊のよく出るところでダンツケ馬が襲われるところだ。(現在錦アパート付近に放牧していた)
数え年五つだから、こんなところまでは来れないなどと、崖を注意深く下がって、つり橋近くまで探したけれども、心もとない照明ではおおい茂った竹やぶや、くぼみまでは目が届かず、照らし出された大木の影だけがやたらに不気味だ。
キーン,キーンと狐の鳴き声が闇のしじまを破るだけだ。
捜索は2時間3時間と続いたが、見つからない。
本部に届く報告はいづれも発見できない。
探索に加わった父親の目も、皆の顔も疲れきっている。
帰りを待ちわびる母親は,何かに祈るようすだ。
夜明けも近い。よし朝飯を食べて7時まで集合して探そう。2番方もねむいだろうが協力を頼む。
第2回の捜索を始めるころから、雨あしがひどくなった。
昨日の昼食を食べたきりで、雄三は何も食べてはいないのだ。
この間、汽車に乗っていったんではないか。
夕張の親戚の家にいったんではないか、鉄道,警察電話がひっきりなしにかけられる。
昼間までのところなんの手がかりもない。
捜索に山に入っても、コクワやぶどう、きのこを取ろうとするものはいない。
こんなことは南部にないこともあって、みんな真剣であったのだ。
軍隊の雨合羽や、みの、かさは、篠つく雨で作業衣もズブぬれ。褌までビショビショだ。
捜索は昨晩と同じコースをやり直しだ。
腰にくくりつけたニギリ飯も、雨のためにサクリと割れてしまい、急いで口にいれないと指の間から落ちてしまう。
しかし、むなしく時間はたつ。
見えなくなって24時間・・・両親、隣近所の人々の空気は次第に不吉なものに包まれた。労務係はひそひそと、その準備の手配もすませた。
夕方5時、6時と時間は過ぎていく。
捜索に出た者はまだ誰ももどらない。そして誰いうともなく、「狐に憑かれたんだ。狐つきにあったんだ」と呟くともなく、みんなが話した。
憂色の色はますます濃くなった。
行夫が大声をあげた!
「ここにいるぞ!!いたゾ!」
雄三は家を出た時に着ていた久留米絣の着物のまま、大きなしなの木の根方に、横になり、窪みに落ち込んでうずくまっている。
大きな枝葉に助けられてそんなにぬれていない。
ダニ峠のおり口から数歩入ったところで何度も何回も通って探したところなのだがと、みんな不思議に思った。
抱き上げてもグッタリとして,雄三,雄三と呼んでも目をつぶったままだ。
のちのちまで「きつねつきにあったんだ」とみんながいった。
開発途上には伝説的な物語も多い。
読まさせていただきました。実は僕自身も夕張出身でして炭鉱近くの住宅に住んでいました。北炭夕張新炭坑なのですが、怖くて近寄りがたい雰囲気です。よければ行ってみて下さい。