僕と木(2000年6月25日)|飯田雅人
2020-04-14
2022-01-27
155531
富士見町2丁目の大木の辺り (平成12年6月25日)
すでに住人の立ち退きが終わり,建物がほとんど取り壊された,大夕張だけれど,街あとをあるけば,草や木々に被われてはいるものの土地がある限り,記憶につながるモノにまだめぐり合える。
富士見町3丁目と2丁目の間に大きな木が立っていた。
ささやくん,けんちゃんや,としぼう,病院の北山先生が住んでいたブロックから下りてくると,この場所にでる。途中,湧き水が流れる排水構が道路を横切りブロックの塊が蓋をしていた。その水は床屋の横を通り栄町の方に流れている。
この木は,2丁目側にあった。道路をはさんで左手にあったブロックには,病院の鈴木先生,こうごくん兄弟もすんでいた。この先の左手にユキノブくん,ミッちゃんの家があった。
夕方自転車にのった僕が向こうからやってきて家に帰っていく。両手を振り回しながら何かを叫びながら坂道をかけ下りてくる僕がいる。
この木を左に曲がると啓心寮だ。そこは会社の独身寮で子供の自分には近寄りがたい場所だった。背の高い木が何本も立っていたはずだが,今は周りの木が高すぎてそれもよくわからない。
右には,小学校へいく3本の道があった。この木のところから曲がるとそれは一番山側の道で,スキー場の前を通ってグランドのバックネットの神社への入口にでるのだった。
正面には線路があり,その向こうにプールがあった。夏休みここまでくると子供たちの歓声がここまで聞こえていたものだ。泳ぎが不得手で好きでなかった僕には眩しく,遠い世界だった。
あの日,僕の大夕張のくらしの中で風景のほんの一つだった木が,今は思い出を伝えてくれる。
読み返してみて思うこと。当時大夕張に、大夕張に帰ればけっこう細かい記憶までよみがえらせていたんだなあ、ということです。
道ばたの木でさえ、生活の中での道しるべになっていた。行ってこそわかる、遠くで思い出すのとまた違う思いだしかたがあると、感じたものでした。
住宅跡の瓦礫の欠片、川岸にころがっていた石炭、今でも我が家にあります。
そんな思い出し方はできない今は、心の中の引き出しをそっと開けてくれるなにか「たち」を整理したり、カタチにしていけたらいいなと思っています。