ネットDE思い出ノート

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NHKBS『私のふるさと物語』大夕張ロケの翌日、2001年10月29日から、番組が放送された2002年1月12日まで、当時鹿島小学校横に設置されたいた『思い出ノート』のネット版として、「ネットDE思い出ノート」という掲示板を期間限定で開設しました。そこに書き込んでいただいたものです。


ああ~大夕張   【匿名希望】 2002/01/10(Thu) 22:46


私は、本当は大夕張があまり好きではありませんでした。

故郷の友達は大好きだし、楽しい想い出もたくさんあるけどなぜか思い出すのは、寒い冬の日のことばかり。
私の父は横浜からの移住者で、なれない炭坑の仕事のせいかどうかは分かりませんが、肺結核になってしまいました。
その為母は、働き出てしまい学校から帰ると臆病者の私は家にひとりでいる事がとても怖くて、いつも外の物置き小屋の屋根の上に座り、兄達が帰って来るのを待っていました。

寒くて凍えそうな時も、じっと待っていた記憶が蘇えって来るのです。結核は伝染病です。母は近所の噂話し等で嫌な思いをした様です。大夕張は寒かった。
父が大夕張に移住しなかったらこんな事なかったのに・・・

父のせいにしては、亡くなった父に申し訳ないのですが、母も冬の寒さのせいか風邪をこじらせ、喘息になり死ぬまで苦しんでいました。私にとっては、そんな大夕張だったけど、今となってはみんな想い出。亡くなった父は、結核の療養中に俳句を始め、生涯の趣味にして一冊の本を残してくれました。
その中の一句 

 
冬の鍵束 どれも合わ無い ガラスの部屋


父の俳句は比喩の表現が多くよく分かりませんが、理解できるようになりたいと思います。大夕張があったから今の私が生きていける。

そんな気がします。ああ~大夕張!


ありがとう大夕張! 【夕張 岳男】2002/01/10(Thu) 00:32


一時期を、共に過ごした谷あいのどん詰まりの小さな町。
それぞれが、それぞれの思いを育み、泣き、笑い、そして希望と憧れに胸を膨らませ、あるいは失意を胸に旅立ったふるさと大夕張。
今そのふるさとがダムの底に沈もうとしている。
去り行くもの、失われ行くものへの愛着と恋慕。
その思いを共有できる仲間達。
「懐かしいなー。お前もそうだべ!」語り合える人。
また遠く離れ、心の中で一人思いを馳せる人。
そんな様々な想いを無言で受け入れてくれる、
心の中に生き続ける「ふるさと大夕張」。
「掛替えの無い友と思い出を、ありがとーう!」。
「お前も元気でな!」


ふるさとを想う 【ziny】2002/01/04(Fri) 21:14

ふるさとを出でて 幾星霜
今日も ふるさとの岳(やま)に 陽は昇り
あすも ふるさとの川に 水は流れる

思いはめぐる 走馬灯
今日も ふるさとの地に 風は吹き
あすも ふるさとの土に 生は息吹く

我が 思いはとこしえに
ふるさとを想いて 友を思う
友を想いて ふるさとを思う

ふるさとの岳(やま)は常にある
我がふるさとは 常にある
今日も心に 岳(やま)がある
あすも心に 川がある

流れる 雲よ 青い空
ふるさとを出でて 幾星霜
時空をこえて 今日も あすも 


ふらりと足跡・・・ 【通りすがり】2001/12/28(Fri) 22:00

縁あって、ここのサイトにお邪魔しました。
これだけ多くの方達に愛されている夕張は、どんな街よりも輝いていますね。帰郷や望郷の念を抱かせる、偉大なる土地。
現実は変わろうとも、みなさんの心の中で、ずっと輝き続けていくのでしょうね。私もそんな”場所”が欲しい。
ここに遊びに来て、そう思いました。
また、せつない気持ち、何かを感じたいときにはここのサイトに遊びにきてみます。こんな私でも受け入れてくださいますか?


元気の元  【ヒロ 三浦】2001/12/11(Tue) 22:07

なーんにも無くなっても、どんなに風景が変わろうとここから自分が始まった大きな事実は誰にも消すことは出来ないから、いつもここが私の故郷です。
この大地を流れる風の中に、シューパロの流れ、ぜーんぶ大切な元気の素、それが大夕張です。


鹿島の紅葉  【中山隆一】2001/11/10(Sat) 13:33

先々週大夕張出身者四人で知床、阿寒方面へ紅葉を観に出かけました。
ワーきれい!...の連発でしたがその後に続くのが

「しかし大夕張の紅葉もきれいだったね….」の言葉でした。
30年前にはあまり感激もしなかった紅葉ですが歳と共に感慨深いものがあります。
もうじき私の本籍地も水の底に沈むそうですが、今となってはあの美しい紅葉がダムの水面に映え夕張の名所とならんことを期待しつつ、いつの日か訪れるのを楽しみにしております。


大夕張の皆さんへ  【miyabi(みやび)】2001/11/03(Sat) 18:06
 

飯田さんのHPに、大夕張訪問記として載せて頂いたmiyabiです。
 夕張市を初めて訪ね、清水沢地区でご老人から数年のうちに消える街が有ると聞いて、訪ねて以来これまでに2回程大夕張にお邪魔してます。
 一回目の時はまだ鹿島小学校の建物も、栄え商店街の建物も(一部崩れかかっていましたが)残っており、花壇の手入れをされる住民の方の姿も見えました。
 しかし2回目の訪問した時には、2軒の廃屋を残し更地に変わり、小学校の校舎も花壇が有ったお宅までも綺麗さっぱり消え去って、大夕張のご出身だとお見受け出来る数組のご家族の姿が印象的でした。

 最後になりましたが、3年前にふらりとお邪魔した栃木ナンバーの旅人に親切にして下さった皆さん。

HP『ふるさと大夕張』を主宰されてる飯田雅人様
思い出ノートを設置されてる伯川様
そして多くの大夕張の御出身の皆さん。
これからもお元気で。

そして、大夕張で偶然にでもお逢いできた時は宜しくお願いします。


心安らぐ場所 【まこっち】 2001/11/02(Fri) 16:25

僕が大夕張を知り、訪れ始めてから約2年。そのたった2年の間に、大夕張は寂しく変わり果てていきました。
でもいつも大夕張は、僕の心の中を温めてくれます。なんと言うか「心のふるさと」のような感じです。

いつまでも残っていてほしいです。


セピア色の思いで   【貞子】 2001/11/01(Thu) 22:18

約30年前、毎日のように友達を見送りにバス停まで行った思いで。
一番感受性の高い時期、大夕張に残った人、去った人、それぞれの心にセピア色の大夕張があるはずです。
11月3日上野で大夕張の会が有り近所のおじさん。伯母さんたちが沢山見えます。大夕張はやはり懐かしいです。

セピア色の思いで  【ひろし】 2001/11/01(Thu) 09:09
約30年前、毎日のように友達を見送りにバス停まで行った思いで。一番感受性の高い時期、大夕張に残った人、去った人、それぞれの心にセピア色の大夕張があるはずです。


旅の途中に 投稿者  【旅人】2001/10/30(Tue) 22:46

私は通りがかりの旅人です。
もっと早くにこの地を訪れたかった・・・。
でも、たとえ誰もいなくなってしまっても、たくさんの人々にこんなにも愛されている大夕張は、幸せ者かもしれませんね。
心の中にいつまでも大夕張が生き続けますように。
また私のような通りがかりの旅人をも、やさしく受け止めてくれてありがとう。


心は孤独な狩人  【宇良田 彰】2001/10/30(Tue) 22:08

企業城下町の宿命であろうか、一企業の運命がコミュニティの運命まで左右する。

僕たちの学舎であった小学校、中学校そして高校までが潰えた。吹雪の日、呼吸が出来ないほどの日でも、頑張って登校したことが懐かしい。故郷を離れて33年、老い行く両親と郷土の仲間の元気さとが私の心の中で反乱を起こす。
袋小路の街でありながら東京との接点を持っていた街...。
そして北方領土からの引き揚げ者の多かった街...。
心は今でも無に帰した故郷の中、大夕張のほんの短い夏の思い出に心を馳せる自分。心は孤独な狩人...。


虹の根元の街 投稿者 【成松 泰彦】2001/10/30(Tue) 15:46

地図から消え行く炭鉱(まち)であろうとも、僕らのこころからは消すことはできまい。
どこかの街をぶらぶら歩く…『大夕張』の名前が聞こえてくるととたんに振り向いちゃう、世代を超えてお友達になっちゃう、なんとも不思議な絆に結ばれたファミリーなんですよね。
『大夕張』とはかけがえのない宝物。
いつかきっと虹の根元の宝物のように誰にも掘り起こすことのできない宝物が埋もれる場所になるんだろうな…


嗚 呼  【久々湊 眞一】2001/10/30(Tue) 10:05

何も無くなった鹿島小グランドでは、風のつぶやきが聞こえた。
笹薮に埋もれたシュ―パロ湖の淵では、鎮魂曲が流れた。
私の原点、大夕張が消える。。。嗚呼。


故郷はシューパロに映る月のよう 【小野 美音子】2001/10/30(Tue) 00:10

哀しみで封印していた大夕張・・・

楽しい事だけではなかった故郷は心の湖に映る月のようだと気付いた今年・・・

長いさざ波の後の、心のシュ-パロに映る澄んだ月(故郷)は 暖かさに満ちたHPからもたらされました。


「思い出ノート」に記しに行きたい、鎮魂の思い・・ 

 想い出の人々、鹿島小、教会、炭鉱の街、・・
泊川さん、飯田さん、大夕張の皆さんに深い感謝を捧げます。


2件のコメント

  • 20年も昔、この句を初めて見たときはびっくりしました。
    そして、現在でもこの句を覚えている自分自身にも驚きです。
    それほどこの句のインパクトは大きかったのです。俳句に興味の無い私が です。
    そう、昔の大夕張、零下30度にも下がる朝、物置(ガラス窓)や石炭庫の錠前・金具には
    霜が降りていて、不用意に触れると指が瞬間的にくっついてしまうのでした。
    (手編みの手袋は指先に穴が開いていた。)
    無理に引き剥がそうとすると大変なことになるので、痛いのをこらえて少し待つのです。
    指が離れても、早く家に戻ろうと焦っても、石炭は凍っていて簡単に砕くことができず、
    そうしているうちに、指先も耳も刺すように痛くなってきます。
    「もっと一杯着込んで来るのだった。」と反省はするのですが、
    何度も同じ失敗を繰り返したのでした。
    当時は想像を絶する寒さでしたから、健康を損ねた人が大勢いたのだろうと察します。

  • 当時、泊川さんは、元大夕張神社の山の木に黄色い旗を掲げ、訪れる旧住民の方に思いを伝え、その手入れをしていました。
    また、鹿島小学校の校舎が有った当時は、校舎前の赤い郵便ポストの横にプラスチックケースの中にボールペンとノートを設置して(校舎が取り壊されたあとは、グラウンドの像のそばに)ノートの保管にあたっていました。
    その様子は、NHKBSの「私のふるさと物語」でも放送されていました。
    思い出ノートの一部は「ふるさと大夕張1丁目1番地」でみることができます。

    「備忘録1丁目1番地」にも、思い出ノートについて書きましたが、あれからももう何年もたち、そのことが、もう一つの大夕張の思い出となってしまいました。

    黄色い旗と思い出ノート

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