流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし②-■|長谷川安造 #5

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 沼ノ沢から大夕張に引っ越して間もない頃、忘れられない思いがある。

 二女は幼少時、ジフテリアにかかった。

 小学1年入学前のこと、病院で、再びジフテリアと診断され、血清注射を受けることになった。

 草野院長が、「念のためきくが、この子、これまでに血清注射をしたことはないだろうな」ときいた。

 私は、「いいえ、沼ノ沢で一度かかり、予防注射を受けています」と答えた。

 医師は注射器片手に「それは困った」という。

 一本の注射を、三度にわけ、病状を診ながら時間をかけて打ち終わった。私は傍らでほっとした。これで一命をとりとめていただいた。

 翌日になり、注射の反応が全身に現れたが、適応処置で、のち、日々回復に向かった。血清注射の怖さ、私には忘れ難い。

 ラジオでは、毎日のように、警戒警報が伝えられた。

 ある日、防空壕堀りの作業時、急に米軍機が20機ほど頭上上空を通過し、度肝を抜かれたことがあった。とうとう来るものが来たと思われた。

 昭和20年8月、戦争は終わり、天皇陛下の特別放送で、敗戦が全国に報じられた。

 校長以下、十数人、学校の使丁室に集まり、備え付けのラジオに耳をかたむけた。聞き終わり、一同がっかり。そして皆で泣いた。腰が抜けた状態。言葉もでない。これまで何のための苦労か、忍耐、努力であったのか、まったくいいようなしで、心身に大きな穴があき、ひどい拍子抜けであった。このような思い、二度と合いたくない。

 昭和21年、6・3・3制教育の実施となった。新制中学校ができて、小学校の高等科は廃止となる。

 その時、職員も小学校と、中学校とに分かれることになった。私は、小学校の方に教頭としてとどまることになった。

 私が大夕張尋常高等小学校赴任当時は、20学級児童数1200名くらいであった。

 学校名も、鹿島小学校とかわり、終戦後の昭和24年頃には、50学級2600余名の児童数、職員60余名と増加し、マンモス小学校になっていた。

 教職者として児童担当のない私の勤めは、実に寂しいものであった。しかし、年中行事の夕張岳登山。冬山の夕張越えスキー行事。水泳宿泊教室など、今も我が家に残る古スキー、古ピッケルを見るにつけ、思い出は尽きない。

(昭和57年2月記)


1件のコメント

  • 祖父の家の物置にあった古スキー、よく覚えています。
    高校生くらいの時でした。
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    よくこんなに長くて、重くて、茶色く古ぼけているスキーで、やっていたな、と、これで滑るということが、実感できずにただただ眺めていた記憶があります。
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    そんな古スキーを大切に保管していた祖父ですが、昭和50年頃だったでしょうか、歩くスキーがテレビなどで、取り上げられていたころ、70才を過ぎていいましたが、歩くスキーを購入し、近くの公園の歩くスキーコースに30分かついで出かけて行って、コースを歩いていました。
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    当時は、よくやるなという気持ちくらいでしかいませんでしたが、自分も次第にその年齢に近づいてくると、その行動の意味や意義も少しは理解できるようになった気がします。

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