流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6
今次大戦では、兄の長男(甥)が角田から出征後、満州で訓練を受け、終戦の春、沖縄に移動、6月の那覇市南方の真栄平で激戦の末、戦死した。兄の家は、二男が鉄道に就職し、当時、空知農学校付属寮母職の母を呼び、のちに嫁を取り結婚。岩見沢市内で家を継ぐ形となる。
私の弟は、終戦と同時に、色丹島で捕虜となり、シベリアに抑留の身となる。幸い、昭和22年7月2日復員となり、元の農業に復帰し、今は栗山で暮らす。
さて、我が家では、昭和22年6月に五女出生、同25年5月四男が誕生。末子となる。一家、12人の大家族で、いよいよ責任の重大さを感ずる。
二男は、早くから咽喉弱く、喘息気味だった。この頃、日赤の後援で、道内虚弱児童のために、伊達、有珠に優健学園が開校された。そこで、小学校6年生二学期から、此の学園に入校させることにした。
有珠の海岸は、気候良く、病弱者には好適の地と聞く。親の手元から初めて遠くへ我が子を手離す。私共夫婦は、様々な思いを込めて、有珠優健学園まで送り届けた。学園先生や寮母先生に深々と頭を下げ、我が子よ我慢強く、早く健康になれと祈る心を後に帰った。
正月休みに学園から大夕張に帰った二男は、健康状態よく見えた。しかし完全治癒とは言えず、引き続き三学期も入園し、3月卒業となった。
喘息は全快で帰り、家中、この上なく喜んだ。その後、鹿島中学校、高等学校と進学したが、喘息は起きなかった。
年月が過ぎるのは早く、長女彌惠子には、昭和29年、結婚縁談話が持ち上がり、三菱大夕張炭砿病院薬局勤務、薬剤師飯田孝に10月に嫁ぐ。喜びと共に、我が家の手元より離し出す淋しさ。
続いて三女佳子にも縁談が起こり、昭和31年、鹿島中学校教諭石井久との婚約が整い、結婚することとなった。嬉しさ淋しさ入り交じる思いが一層深まった。
昭和32年4月。私の転勤となり、19年の間勤めた鹿島小学校と、住み慣れた大夕張の地を後に、夕張市東端、入り口の位置にあたる峠下の富野小学校に移った。
母、ともども一家10人の大家族を引き連れ、大勢の職員と、校下の父兄たちに見送られ、大夕張駅を後にした。
(昭和57年5月記)