流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7

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 昭和20年前までの戦争に参加し、大変な苦労や、戦果を挙げたたこと、又は戦友との悲しい別れ、戦慄厳しい中の色々、家庭的悲喜交々、何れも第一線に臨み、生死の線上に立っての有り難くも尊い体験談をよく聞いたり、読んだりする。

 そうした度毎、私はほんとうに長い月日ご苦労様でした、お陰様でありがとうと感謝の念で頭が下がる。

 実は私には軍隊生活はなかった。昔の兵隊検査(満20歳での徴兵検査)には、第一乙種合格となっていて、まずまず並の体格かなと思ってる。

 戦争中に私は別段弱いとか、病気とかでもありませんでしたが、兵隊として、或いは戦地に応召されることもなく終わりました。

 昭和10年頃は、社会的にも一般にも憂うつで反動的というか、私ども教職についている者にも、なんとなく感じた時代である。

 それが昭和12年に入って、日華事変を起こし、中国との関係が好ましくなくなった。

 この頃は、夕張市沼沢小学校に教鞭をとっていた。

 夕張川流域の平坦地と、丘陵地からなる小農村地である。この小地域からも、私と同年齢者に召集が来た。

 沼沢駅前で町内会の人々、青年団員一同、在郷軍人、小学校の尋常、高等科全児童と全教職員で、日の丸の小旗をそれぞれが手にして、部落住民総員で勇ましく、万歳の声高らかに、送り出したものだ。

 こうした日は、一日とならず、数日たって、または一週間も過ぎると、今度は在郷軍人の一人に召集令状、次には教え子に、といわゆる赤紙令状が届き、その都度、部落民総員で勇気づけ駅頭でおくったが、汽車の姿と、振り続ける手が見えなくなる頃には、送り出した一同の胸の中、一同のまぶたは、いつもと変わって写る。

 我が国内や、世界の情勢は日と共に年々変わってきた。学校教育も、生産・増産の声が高くなっていて、高等小学校児童にも、農村科の時間が多く計画され、学科ばかりでなく、農作業の実際指導をも行った。

 兎小屋の作成、豚小舎の建設からはじめ、それらの飼育指導。学校裏地2500㎡位の土地の耕作指導を、高学年40余名で作付けから、収穫物の処理まで、常に児童と共に、実りを楽しみとして働いた。

(平成5年2月20日記)


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