流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8

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 年がかわり、私は夕張市三菱大夕張礦業所のある大夕張尋常高等小学校に転勤した。

 昭和13年の春の頃で、国内情勢、何処も同様な雰囲気で、この地は前任地に比べて、人口も多いだけに、応召兵士の数も多く、殆んど毎日の様に、大夕張駅ホームまで、高学年児童と共に見送ることとなった。

 「勝ってくるぞと勇ましく」(露営の歌)や「みよ東海のそらあけて」(愛国行進曲)など、日の丸小旗を振りながら、出征兵士を送り出した。

 学校は移り変わっても、その当時は、どこの市町村でも、いや全道全国的に物の生産増産主義には、変わりなしであった。したがって私が高等科児童を担当した5、6年間はいつも児童と共に学校農園や、小家畜の飼育等で汗を流した程だった。

 大夕張尋常高等小学校では、綿羊の飼育と同時に、剪毛や洗毛、さらに毛糸つむぎ等の技術指導、ウサギは年間20数頭飼育し、動物愛護心育成を兼ねた。

 戦いは、昭和16年日米戦争と進み、学徒動員令が出され、小学生から中学生あるいは、国防婦人、一般各職場人と実に広範囲に亘り、産業増産に国民一丸となり励み続けた。

 私の担当児童も、40数名の女子だったが、増産の為に、笹藪原を開墾し、野菜畑としたり、坑内用坑木運搬作業、コークス・木炭の運搬又は木材運びの森林鉄道沿線の草刈作業等、国をあげての勤労動員であった。


 私達、教職員一同で、日曜動員というので、坑内に入り採炭作業で黒くなった日もあった。

 冬は校舎の雪落とし。それから、坑外輸送路屋上の雪落としで日焼けした日もあり、と今振り返ってみて、この体でよくも続き耐えたなと思う。

 尚、家庭関係では、一般に生活必需品の不足、食料品の極端な不足、一応配給制度はあったが、私のように家族の多い者には、それ相応の苦労が伴った。

(平成5年2月20日記)


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