流れのように■銃後の私(3)■長谷川安造 #9

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 動物愛護とか、農林省滝川畜産種羊場と言う言葉を耳にすると、私の戦時中の大夕張での生活が思い出される。

 自給自足や増産教育が、全国どこの学校でも盛んで、前回にも一寸述べたところだが、児童と共に『打うちてして止まん』『勝つ迄』の精神で、成し遂げれるものには何でもぶつかっていったものだ。

 高学年担任で炭砿地域内の学校だが、綿羊飼育も行った。その中に校下父兄の中で、学校教育を見習ってか、生活の余暇を利用し、綿羊飼育を始めるものも出てきた。

 時代相応に、羊毛の自給自足を目指したものと考えられる。しばらくの間に炭住街の校下に20頭近くも飼養する有様だった。

 私事ながら、子供達が弱い方であったため、山羊乳は、最も母乳に近い栄養価ありと知り、我が家の山羊飼養を始めた。朝夕2回の搾乳量2粒ある迄となり、乳呑み児一人分は十分間に合った。

 近所の人々が聞きつけ、妻が弱い、子供が病弱なので、山羊乳をもらえないかの希望者があり,望みを適えるのに苦心したこともあった。

 学校の中庭に、手頃な牧草地があり、その使用を許してもらった。私は毎朝出勤時、山羊を伴い、その中庭に帰宅まで放し飼いにしてあった。児童達からは、「山羊先生」のあだ名をもらった。

 飼育中は、山羊が病にかかれば、相応の手当てをなさねばならず、獣医学知識のない私には、苦労続きであった。

 年一回の綿羊の剪毛については、幸い滝川市幌倉での剪毛講習会に出席することができた。当時の鋏み刈りも、幾らか自信がついた。


 その中、校下には自然発生のかたちで、大夕張の沢地炭住街に、30名近い会員で「山羊綿羊組合」なるものを組織した。そして組合活動として飼育等共同研究の進み方を辿るようになった。長い戦争中の国内物流停滞最中の一現象であった。

 自発自主的、研究的で確かによい事であったと思う。その組合長は石川さん、副組合長には、いつの間にか私の名が出ていた。恐縮次第です。

(平成5年5月28日記)


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