流れのように■銃後の私(4)■|長谷川安造 #10

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 そんな或る年の春、教室で朝の学習が始まって間もない時、教室入口の開き戸を静々とあけ、のぞき込むように「先生,ちょっとお願い」山羊綿羊組合の一会員小林さんだった。

 私は学習を中断し、何事かと廊下に出た。

 「家の山羊がいま難産で苦しんでいる最中、何とかお願いできませんか」

 私は困った。しかしこれは生命問題だ、時間を争うことだ。児童に

 「ちょっと待ってね」と言い置き、職員室に急いだ。

 校長室に入り、伊沢校長に事情を話した。校長は、

 「君、いってやれ。教室は僕が代わっていく」

 ありがたい言葉に、許しが出てホッと小林さんと走るように1粁半。山羊小屋に到着。町外れに住む堀田さん(空農畜産科卒、牛舎経営)にご足労願い、やっと分娩を見ることができ、一同安堵した。

臨時授業をかわってくれた伊沢豊久校長

 綿羊の剪毛も組合員自身で刈るようにもなったが、日曜日には私が手がけたのもあった。山羊の病気手当て等、勉強したり忙しい時もあった。

 児童の学科指導の外、学校園の農作業、動物飼育全国学徒動員で、小学児童高学年も、地域社会の生産業には出動協力した。児童と共につらい日が続いても,日々勝つと希望燃え明るく皆と励んだものだ。

 それにしても、全国食糧難で配給制であり、カボチャ、でんぷんの屑粉等の配給で、他は自由に手に入らない。

 母ともに12人家族、悪い事と解りながらも、好都合の日曜日、従姉妹の農家岩見沢を訪れたり、角田に住む弟の農家を訪ねたりして、恵み与えられた米をリュックサックで背負い、汽車で、或は歩いて帰った。親戚の方々へ今も感謝している。

 戦い進むにつれて、国内中の金物、お寺の釣鐘はじめ、子供の弁当箱、箸に至るまで、我々の身の周りから消えていった。国内食料品、衣料品不足で配給制となり、栄養失調者が出た。

 衛生必需品不足からか,誰もがノミ、シラミの多発で悩まされた。国民一人一人の生活に事欠き、苦痛と苦難が実に多かった。こんな思いは私だけでなく,如何なる職にある者も、老若男女総べて全国民が等しく味わったことである。

 戦時中の銃後生活は、何処の国民も、こんな困窮状態なのかとも想像してみた。国民が、また子どもが可哀想でたまらない。

(平成5年5月18日記)


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