流れのように■終 戦■長谷川安造 #11
終戦直前の頃、内山清治校長の温情により、職員各家庭にて空襲に備え、防空壕を作るものにはその材料を提供するとの話があった。
長さ、幅、厚さと大物であったが、家庭のことが頭に浮かび、防空壕づくりを決心した。
7月末日、お隣の外山正平先生共々、家の前の土手地に壕づくりが始まる。
その最中の或日の午後、突然、礦業所の非常サイレンが鳴り響いた。
空襲の警戒警報である。
逃げ込む間もなく,西の方からゴウッと物凄い音がする。木陰から上空を見あげると、B29十数機の編隊が、頭上を東方に凄い音で直進している。
防空壕作り中の外山先生と、夕張岳の向こうに機影の消える迄見送った。
帯広上空も通過だったと後できく。あれだけの編成機が爆弾一つ落とさず飛び進んだこと、今もって全く不可解なことである。狙いは釧路であったろうか?
それから幾日かして8月6日広島市に原爆投下を知り、引き続き長崎市に投下され、多くの建物、人命が失われた。
8月15日正午には、昭和天皇の玉音放送ありと伝えられた。
学校は夏休みで、私の家では、妻が子供達5人を連れて真谷地に墓参り。途中清水沢駅で、正午のラジオを聞く。
私は、当時は今のようにテレビさえ無い時なので、学校の用務員室のラジオを内山校長以下10数名が集まり、聞かせてもらった。どんなお言葉だろうかと、皆同じ心であったと思う。
「忍び難きを忍び 耐え難きを堪え」と全国民に諭された。
寝耳に水だ。まったく並々ならぬ忍耐の又忍耐である。
一ときシュンとなる。敗戦、終戦を聞くや一同落胆、全身の力はどこへやら、身の置き所も知らずみんな泣き出した。
これまでの張り詰めた心は、嘆き悲しみに一変した。
今日までの辛苦や忍耐、努力などいったいなんであったのか、と憤ってみたものの、全国民等しい有様で、どうにも致し方の無い事となった。
その後、児童達の前では、腰抜け同様の教師である。
情けなくも残念なことであった。
占領下におかれた私達の職場では、従来とは変わった様々なことがあった。
教科書の中でところどころを、墨汁で消して使った。
あるいは、世界地図、日本地図、学校備え付けの掛地図等は、没収された。
ある時には、中国人労働者が土足で各教室を巡り歩き、学習中の児童達が驚かされた場合もあった。
校下でも、各家庭の炭住街で大騒ぎを起こしたこともあった。
暫くして、彼らも進駐軍の援護を受け、帰国となった。
その後、朝鮮人も同様に引き揚げていった。
朝鮮人の引き揚げでは、教え子達もいたので、別れを惜しんだものだ。今頃、何処でどの様にしていることか。
(平成5年8月18日記)
大夕張の上空をB29が飛び去ったというのは初めて知りました。
生々しい証言に驚きます。