昭和48年 『団結』列車 No.4

10220


発展する町 南部  【飯田雅人】

 この場所は南部若美町の住宅群の前を走っている列車。昭和48年は,大夕張の閉山の年ですが,南部は,昭和45年出炭以来,新しい住宅もでき町としても発展していった時期でした。

 昭和46年ころ,南部に引っ越した友人の家に遊びに行った時に,大夕張では,新築の住宅というものをほとんど目にしたことがなかったので,その住宅の新しさがとても印象に残りました。

 また,大夕張から札幌へ向かう三菱バスの車中から南部にできた三菱の立派な体育館を目にして,町の発展を感じ,子どもながら大夕張が古臭く感じ始めたりしたことを覚えています。

 「団結」と大きくペイントされた蒸気機関車は、この年の12月に、運用廃止され、南大夕張-大夕張炭山間の鉄路は撤去されます。そのことを知ってこの写真を見ると、南部の新しい住宅の前を走って行く、その姿に何か悲哀のようなものを感じます。


3件のコメント

  • 私は昭和48年から数年霞ヶ関に勤務した。職場では産炭地の将来に関する議論があった。
    当時は、勤務時間後、課内の応接セットで飲むことがちょいちょいあった。
    そんなとき、一番下っ端の私はいつも聞くだけの立場だったが、
    炭鉱の将来に関するこの話題にだけは反応した。

    「炭鉱の炭層は薄くて45度くらい曲がりくねって走っている。」
    「機械化などできない。外国のマネは上手くいかない。人間が手で掘るしか無い。」
    「圧力が抜けた炭層からは黄色いガスが漏れてくるし、粉塵にだって火が付く。」
    「山ハネだってあるし、縦坑からの落下もある。健康も害する。」
    「私の父は2回も事故って死にかけた。生きているのは炭鉱を辞めたからだ。」
    「代りのエネルギーがあるのだから、命がけで採炭をやる必要は無い。」
    「労働者にとって、仕事を確保することが大切なのであって、危険な作業を将来に残
     し続けることが目的なのではない。」
    「景気がいいうちに、別の仕事を斡旋をする方がみんな幸せだ。」

    この話は、その場にいた数人の専門官が、頷きながら聞いてくれた。
    私の認識は、今でも当時と変わっていないが、けれど・・

  • こん〇〇わ!
    No4のカラー写真が綺麗ですね。
    若美町の二階建ての住宅に、何となく記憶があります。
    閉山反対ペイントが気になったので調べてみました。

    添付の写真は鹿島小学校のグランド側から撮った、大夕張駅に居たNo4と思います。
    デフのペイントに別バージョンがある事は知りませんでした。
    40年以上前の事でしたが不思議な感じです。ありがとうございました。

    • 本当だ!今までペイントを比較してみたことはありませんでした。
      _
      この青空がきれいな写真は、「2丁目3番地」では明記していませんが、本間正雄さんが撮影された写真です。
      たしか、海が好きさんのブログのどこかでも言っていたかと思いますが、当時は、カラーフィルム高価だったんですよね。
      本間さんが、よくカラー写真で残してくれたと感謝です。
      _
      確かに、デフのペイントが、違っていますね。
      「閉山阻止」に「山の火を消すな」言葉の付け加え。
      どちらが先にしても、全面書き換えしてますね。
      _
      大夕張駅のNo.4の貴重な写真と、興味深いご指摘、ありがとうございます。
      _
      それにしても、小学校のグラウンドから、こんな光景が見えているなんて。
      休み時間、砂場で、砂遊びをしながら、汽車の発着の様子を普通に見ていたように思います。
      今思うと、すごいですね。

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