岳富町の坂 (緑町から岳富町方面)
昭和48年頃、岳富町方面。
ここは、かつて宝沢と呼ばれる沢地だった。
父母の年代は、岳富町と呼ぶより、『たからざわ(宝沢)』と呼ぶ方がしっくりしていただろう。
昭和40年代、少年たちが自転車にのって、町を走り出した頃、駅前から千年町方面にいくには、この坂道を風をきってとばしていた。車は滅多に通らない、通るとしても1時間に一本のバスか、木材を積んだトラックだったりだった。
夏は、窪地の底に見える『逃げ水』を追って、坂を猛スピードで駆け下りた。その余勢を駆って後半の坂道に挑むが、いつも登り切る前に、息切れをして、苦しい思いをした。
雑貨から生活用品を扱う商店の他に、遊戯場、飲食店、居酒屋等多くの店が入っていた。
少年にとって、昼は扉が閉ざされた中が窺い知れぬ赤提灯の店など、大人の世界を垣間見る商店街でもあった。
配達に行った岳富町の飲み屋【Masami Kawauchi】(2021年4月23日)
昭和45年に、私が勤めていた『帯向酒屋』で、岳富町に配達に行った飲み屋で覚えているのが、『 葵 』『 鉄ちゃん 』『 つどい 』『 鍋千両 』『 たつみ 』『 きく 』などが、有りましたね。
岳富町の坂 【真田 裕一】(1999年2月18日)
先頃アップされた、「昼下がりの駅前風景」と、この「緑町から岳富町方面」の写真、ひときわ嬉しく拝見させてもらっています。
どちらも昭和40年代ということで、僕が小学生の時分です。
自転車のパンクをよく直してもらった岳富町の自転車屋さんとか、3日遅れくらいで入荷する漫画雑誌(少年ジャンプ)を買いに行った本屋さんとか思い出されます。
ふたつとも、いつもよく見ていた風景だけに、懐かしさで一杯です。
岳富町の坂道は、よく自転車で猛スピードで駆け下りた道路でした。
日曜日の昼下がりなどは、父の乗る自転車とよくすれ違ったものでした。
この写真にも、自転車に乗った人が写っていますので、もしかして父ではないかと目を凝らして見てしまいました。(^^;
この写真のアングルから、坂道を駆け下り、また少し登ると、宝町の風呂屋がありました。
これが頻繁に壊れて休業する風呂屋で、そのたびに富士見町(だと思う)の風呂屋まで自転車で通ったのでした。結構遠いのですよ。
ふたつとも、僕の小学生時代の思い出そのもののような光景です。
真田さんの書き込みにある『昼下がりの駅前風景』はこちらから
実は、この写真最初は昭和45年と書いていたが、Kawauchiさんが次のようなコメントとともに、写真を送ってくれた。
これも 昭和45年 だと思うのですが、最初の店の看板 『下川商店』 に 『八重ちゃん』が 『 琴 』 になっていますね。
最初の、ペプシの看板の錆方が、違いますね。
なるほど、錆び方をみたらたしかにそう。こっちの方の写真が古い。
昭和43年の住宅地図の並びはこうなっている。
自分が見ていた風景は、Kawauchiさんの写真の方だった。同級生に、小田桐靴店、今布団店、安田靴店の親戚縁者がいたはずだ。そのため、この辺りを中学校の行き帰りで通るたび、印象が残る場所だった。
海も好きさんのツイートを見ても、「紀の国屋」の看板はすっかり新しい。『日糧パン』の看板も取り付けられている。経営者が変わったのか、屋号が変わったのかはわからない。昭和48年のことだ。
閉山前の数年のことなのに、街はあたり前に発展変化をしていたことを感じる。
昭和48年で色んな意味で時計は止まってしまった。