野球あそび

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 昭和40年頃

 中学生達の頭も丸刈りが、そのころの『常識』だった。1965年、今から50年程まえのこと。

  場所は、栄町のブロック横だろうか。

 おそらく、この写真の右手には、富士見町の山からわき出る沢水の流水溝が『理容フレンド』の横を通り、栄町の大きな通りの下を潜って、栄町のあたりでまた顔を出していたのではなかったか。その先、川まで流れくだったのだろうが、このあたりで、残念ながらその流水溝の記憶は途切れている。

 

 プロスポーツは、プロレスとプロ野球の隆盛期だった。

 野球はバットとミットと軟式のゴム製のボールを持ち、三人以上いれば、ちょっとした路地や空き地ですぐに野球が始まった。 野球というよりは、むしろバットとボールを道具にした『ごっこ』的な遊びだった。

  

 二人で始まるキャッチボールから、三角ベースまで、集まった人数や、場所に応じて、子どもならではの工夫や発想を生かしながら、自分たちでルールを決めて遊んでいたのだった。

 

 

 

白黒写真に着色した画像

 

昭和40年 ピッチャー・バッター・キャッチャー・審判のセットで『野球ごっこ』

栄町ブロックの思い出 【藤田育雄】

 色々な事して遊んだ想い出と、ブロックの裏に各家庭が皆さん畑を作っていました。

 洗濯の物干見て下さい。

 


タンポポの海 【斎藤 敏幸】

北の国にも,やっと春が訪れてきました。ここ札幌でも,中の島周辺の公園でも桜の花が開きはじめました。

毎年,この季節になると「タンポポの海」を思い出します。

当時,僕の住んでいた栄町ブロックの周辺には,木造長屋を取壊した跡地が幾つもありました。特に栄町の詰所の辺りは,沢山の空き地がありました。

それらの空地には,春になると,確か5月1日のメーデーの頃には,タンポポが一斉に黄色い花をつけるのです。辺り一面タンポポ達の見事な群生落なのです。
そこに風が吹くと,黄色い花達は,まるで海原で波を打つかのように揺れ出すのです。

いつしか僕の周りでは,この光景を「タンポポの海」と呼ぶようになりました。
学校への行き帰り僕達の春は,「タンポポの海」に包み込まれていました。

今では,当たり前のように自家用車を持ち,断熱材の住宅で冬の寒さを感じることもなくなり,いつでも好きな時間に風呂につかることもでき,当時の生活に比べ,はるかに快適な日常を手にいれることができました。

でもいつのまにか,季節の移ろいにも気づかず,時間に追われいつも足早に歩いている自分が見えてくることがあります。

大夕張を出てからこの間失ったものは,故郷の原風景ばかりではないのかもしれません。

休日の日,大夕張のことを思い出しながら,もう一度自分の心の中に「タンポポの海」を蘇らせてみたいと思ったりしています。

3件のコメント

  • 僕は抵抗できず、一時期丸刈り坊主を体験していました。(笑)

  • 写真の皆さん、中学校の制帽をかぶっていて、皆坊主頭。長靴に下駄履きで野球。これは遊ぶときの普段履きです笑。

    坊主頭と言えば、小学校6年生の頃、中学校への進学を控え、いやだいやだと思っていたことが、この坊主頭。
    当時、周りの中学生のお兄さん達はみんな坊主頭で丸刈りでした。「中学校に入るときは全員丸刈りにしなくてはならない」という規則あるとささやかれて、それをきいていた自分は、いやだいやだと、思っていたわけです。

    ところが、自分が入学する頃には、廃止になったのか、単なる噂に過ぎなかったのか、丸刈りにしなくても良いことになりました。昭和42,3年のことでしょうか。ほっとしたことを覚えています。

  • この写真に写っているのは、バッターが野戸君、アンパイヤーが大山君です。二人とも同級生です。

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