本覚寺(真宗大谷派)

18610

真宗大谷派寺院。樺太から引き上げた浜出正一が樺太からの寺院を移転し、昭和24年4月、錦町の山手の方に設置。

白黒写真に着色した画像

 

【沿 革】

所在地

 夕張市鹿島錦町五番地

創立年月日

 昭和24年4月

寺号公称

 昭和36年3月

本 尊

 阿弥陀如来

歴代住職名

 浜出慈雲・中井慈照(旧三菱勤務)

檀家総代

 田中義衛・所寿美・富成義夫・斉藤茂男・鈴木 昭

檀家数

 40戸

年中行事

 宗祖親鸞上人報恩講・盂蘭盆会法要・春秋彼岸法要

境 内

 800坪

建造物

 本堂(20坪)、納骨堂(10.5坪)、庫裡(35坪)

(『夕張市史S56』データは編纂時のもの)


私のすべて大夕張 【中井久雄】

 私の誕生は、昭和5年12月28日、栄町1丁目1番地です。栄町2丁目と3丁目の間の道路で大勢の仲間と遊んだ。冬は寒さが厳しく、登校の際は、よく耳が凍傷になった。

 坑内に働く人々は、朝が早く、遅く帰ったように記憶しております。昭和20年の8月終戦の時、坑内で働いていた中国人が炭車から続々と降り、歩くのもやっとの様子でした。そして昭和、直心寮に収容され、韓国人との騒動があり、進駐軍が寮を取り囲む、進駐軍兵士の格好良さは未だに忘れられない。

 毎日のように送った出征兵士が次々と復員され、炭鉱の従業員も7000人を越え、賑やかな地域となる。

 昭和27年市内では、初めての珠算教室を本覚寺に開設し、多くの生徒が集まり、現在に至る。炭鉱の合理化が進み、縮小され、昭和48年の閉山とともに、思い出多い建物もなくなり、地域の活気が失われ、ダム建設により私のすべてであるふるさとが故郷に沈むとは、甚だ残念至極である。

 (『鹿島で暮らした日々大夕張(H10)』より)


  

そろばん塾  【福山美佐子】

ここでそろばん習ってました。

同級生(中井さん)のお父様が住職であり、そろばん塾の先生でした。

入り口の向かって右側は確か洋裁教室で、中井先生の奥様がやってらっしゃったはずです。

                    


 

そろばん塾  【永井利勝】(2007/05/13(Sun) 22:25

昭和32~34年ころ、お寺でそろばん塾が開かれていて、学びました。

その際、住職、中井慈照先生が教えていました。

現在、先生は夕張市紅葉山にお住まいです。

お寺の本堂、右側の教室で授業が行われておりました。


洋裁教室 高橋 芳江】(2021年9月19日) 

ここのお寺で、洋裁教室も有りましたよね!
 

四年間 洋裁習いました。

 
右側の入口から入りました。

当時 お寺の奥様に習いました。

懐かしいですね。


檀 家【小林 光志】 

 檀家でした。

 浜出先生が 春日町の自宅まで来てお経をあげに来てました。

 短期間だったけどそろばんも習いに行ったな。家から遠かったんで・・・



 

※下の『本覚寺』タグから他の写真も見ることができる
                     

2件のコメント

  • 大夕張、本覚寺での「そろばん塾」ですが、そこの住職、中井久雄さんがやってました。
    実は、一昨年、2018年に何気なく、連絡しましたら、奥様から連絡を受けて、
    2018年8月23日に亡くなっていたのがわかりました。ご冥福をお祈りします。
    現在、奥様は夕張市紅葉山166にいらっしゃいます。

  • 懐かしいなあ、このお寺。私も算盤を習いに通ったものです。
    一時期、1学年下の久々湊君(東小学校)と一緒に通いました。
    私は上達が遅くて4級止まりでした。情けな~ (>_<)

    住職には可愛い妹(育子ちゃん)がいて、
    私は5、6年時(鹿島小学校)、彼女と同級(菊組)なのでした。
    今頃どんなおばあさんになっているかしらん?

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