私が住んだ街 |太田 勢
私が大夕張に住んだのは、小学校2年生からの4年間でした。
両親が夕張出身(遠幌、楓)で、祖父母も夕張に住んでいたので、夕張には小さい頃から何度も行ってました。
そんな私が、父の転勤で初めて住んだ夕張の地が、大夕張でした。
私が住んだのは、富士見町6丁目の一番奥でした(家の裏は沢でした)。
担任の先生は、浜出先生、古谷野先生、熊谷先生でした。
妹は教会の幼稚園に通ってましたが、オニール神父が園長先生だったと思います。
そうそう、みんなオニール神父を「おにぎり神父」と呼んでいました。
それでも神父さんは、そう呼ばれても、いつもニコニコしてましたね。
購買会、生協、よくお使いに行きました。
本が好きだったので、谷野書店、川西書店で立ち読みばかりしてました。
我が家はあまり外食をしなかったのですが、だるま屋のラーメンを食べたことは、何故かはっきりと覚えています。
あ、健保会館の食堂だけはよく行ってたんだ。
何でだろう。
こんなこと書いていたら、ホント切りがありません。
僅か4年間でしたが、他に住んだどの街よりも心に残っているんです。
私が住んだのは、昭和48年からですから、飯田さんが住んでいた昭和34年~36年頃よりずっと後になります。
たぶん飯田さんが住んでおられた家は、私の家の横にあった坂道を登った先にあったのではないかと思います。。
ただ、私が住んだころには、その辺りにあった家は、既に取り壊されておりました。
天気のいいある日、母と妹と一緒にピクニックに出掛け、坂道をずっと登って結構奥の方に行ったのですが、家を取り壊した跡があって、母が
「こんな奥まで家があったんだね」
と言ったのを覚えています。
そのとき、草むらに腰掛け、おやつに持っていった飴せんを母と妹と一緒に食べたことも、私の大夕張での懐かしい思い出の一つです。
(2002年8月31日、9月4日 記)
自分も6丁目に住んでいて,6丁目のより山の上の奥に住んでいました。
自分が住んだのは小学校低学年の頃,昭和36~40年頃のこと。
今思えばもっと上に住宅を取り壊した空き地があって、その土手から山に登ると、そこは子供の頃の『基地』でした。
クワガタ取りや,ぜんまい取り、時には小さな冒険旅行の大地であったりと,思い出には事足りません。
裏の小さな沢も大切な水遊びの遊び場所でした。
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