東日本大震災体験記|ziny
※注 本稿は大夕張における『1968年十勝沖地震』の投稿中に『附録』として記載されていたものです。
平成23年(2011年)の3月11日は都心のエレベーターの中での地震を経験しました。
いやぁー、本当にすさまじかった。無事の今思うと貴重な体験でした。
15:00の約束で先方に向かいエレベーターホールに着き、時計を見て14:45分、「ちょっと早いが・・行くか」と連れとエレベータ―に乗って11階のボタンを押して、動いた途端、あっ、・・・地震だ!!、と皆が声を出し、箱の中はガタガタとし始めました。
やばい、と思った途端・・、5階で停止してドアーが開きました。
皆、急ぎ脱出。(ここは免震構造の新しいビルでした。)
エレベーター内では、ガタン、バタンとモノの落ちる音、フロアーはグラグラと揺れ始め、非常扉がバタッ、
バタッ・・と閉まり始め、つかまるところもない暗いエレベーターホールで、5分以上?グラッ、グラッと揺られ続け、ニュージーランドのビル崩壊のことが頭をよぎりました。恐れ入りましたね。今回の揺れとその揺れていた時間の長さは、当然、初めての経験です。
まだかっ・・、まだかっ・・っていう思いでした。
職場へ戻ると、皆、外に出てビルの周りに避難中、近くの高層ビルの最上階38階当たりの部分はゆったりと横揺れが続いてました。
我が10階では、ロッカーも倒れ、書類も散々でした。
余震もあり、帰宅指示。
17:00、地下鉄の駅で不通を確認。
私は翌日の午前中に母親を病院へ連れて行く予定でしたので、帰る必要があり、水、お茶、カロリーメイトを
販売機で買い(水は最後の一本)重いカバンで歩き始めました。(職場の机の引き出しには、お土産のお菓子が
ストックされていたのに・・・)
日比谷公園をつっきり大手町方面へ・・・しかし、周りの高層ビルはガラス窓の多いビルばかりで、ヘルメット持参の人達が結構目に付きました。
上空のビルのガラス窓を気にしながら、黙々と歩く長蛇の人々の中に溶け込み、何とか20時過ぎに西武池袋線東口着。
ここまでの旅の途中、歩きながら水分を摂るのでトイレが気になりました。しかし、電車は動いてないけれど地下鉄などのトイレは解放されてましたので助かりました。
さてと、例の居酒屋?で電車開通まで一杯・・と覗いたが、満席。
やむなくカロリーメイトで小休止の後、歩き始めました。
西武沿線は道が分かりにくい。
前の人についていくのが一番と・・・休めずに歩き続け、練馬に22時過ぎ頃の着でしたか・・。この先はちょっと体力的にも難しいな・・・と・・思って、駅を覗いたら、そろりそろりと走り始めるとのこと、満員の箱に潜り込み23:00過ぎに何とか所沢着でした。
我が家では2階のテレビがひっくり返ったそうです。
ふゥー、疲れた。、、しかし、5~6時間の歩きは毎年行っている5月のハイキングと思えばいけると歩き始めたが・・・何とか辿り着けた感でした。
やはり帰宅難民の厳しさを実感させられました。
でも、アスファルトの道は腰が疲れました。
(2012年5月18日 記)