水戸黄門と吉良上野介 | 高橋正朝 #87

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例によって、飯田さんの資料をコピペ。   

大夕張劇場 映画の看板  

( 飯田さんの解説文を、一部抜粋 )   

水戸黄門 】東映  

同名の作品が、1940年・1957年・1960年・1978年に公開されているが、おそらく1957年のもの。月形龍之介映画生活三十八年を記念し、東映スターが総出演。  

昭和32年(1957年)東映  

監督:佐々木康  

主演:月形龍之介  

 

 

昭和28年 大夕張劇場  

( 飯田さんの解説文を、一部抜粋 )   

  • 昭和15年(1940) 12月25日,岩見沢の新田睦吉の経営となる。
  • 昭和18年(1943) 6月 映画常設館となる。
  • 昭和24年(1949) 10月29日,岩見沢新田興業株式会社に経営が引き継がれる。            

 千年町にあった大夕張劇場の写真の解説文から惹起されたことがある。   

 一つ目は、月形龍之介で、二つ目は岩見沢である。

   

 鹿島東小学校の4年生とき、誰であったか覚えていないが、級友が、月形龍之介は北海道出身だと言っていた。

 その級友の親か、周りの年長者から聞きかじっていたのだろう。当時、北海道出身の有名人はとても少なかったので、その言葉は、疑問とともに私の記憶に残った。

    

 それで、今回、ウィキペディアで月形龍之介を検索してみたら、出生地こそ宮城県であるが、幼児に、岩見沢で『 橘屋 』という劇場を営んでいた叔父の養子になり、そこで育っている。 だから、北海道出身というのは間違ってはいなかった。

    

 芸名の由来については、『 月形半平太 』と『 机竜之介 』の合成説と、岩見沢の隣村の月形村( 後に月形町 )があるようだ。

   

 飯田さんが編集した大夕張劇場の映画の看板の説明のなかに、水戸黄門があったが、その映画を、私は、そこで観ている。 

  

 学校の先生の引率でなく、母親にねだって映画代を出してもらい、1人で明石町番外地から千年町まで歩いて行った。

    

 当時は、映画の上映中でも中に入ることができた。 上映中の映画が終わると、職員が、換気のため、窓を開けていた。 

  

 当時、ニュース映画は必ずあり、上映される映画は、普通は、2本立てだったように思う。 ただし、忠臣蔵のような上映時間の長いものは、当然のことながら、1本立てだった。

   

 この大夕張劇場で観た月形龍之介が出演した映画は、『 水戸黄門 』、それと、吉良上野介役をやった『 赤穂浪士 天の巻地の巻 』である。

    

 月形龍之介は、我々の少年時代によく言っていた、いわゆる、〘 わるども 〙〘 いいども 〙の、両極端を演じることができた名優だった。

    

 協和会館では、月形龍之介が脇役で出演した『 大菩薩峠 』を観ている。 これはカラー版である。 ただし、続編を観ることは適わなかった。 机龍之助役は片岡千恵蔵、宇津木兵馬役は中村錦之助。

    

 大夕張劇場が、岩見沢にあった、岩見沢新田興業によるものというのは、飯田さんの資料で知ったことだ。

    

 岩見沢という地名で連想したことがある。

    

 私が、夕張工業高校土木科1年生の1学期のとき、たしか、6月ごろだったと思うが、校名は覚えていないが、岩見沢に所在していた高校を訪問したことがあった。

    

 私は、クラブ活動として新聞部に所属していた。 それで、先輩たち3〜4人とともに、岩見沢のその高校の新聞部を訪問した。

 その高校は男女共学だったので、部室でのミーティングにも、女子生徒が2〜3人加わった。 眩しかったなぁ ••••••。

    

 もう1つ連想したものがある。 

   

 前回まで、# 84 〜 # 86 と3回に分けて書いた、『番外編••••••密かにささやかれるパリの3悪』の、その3で言及した銀行が、岩見沢の地名で連想した。

    

 その名は、東京銀行。

    

 私たちが、岩見沢の高校を訪問したときに、その地に、実際に東京銀行が存在していたかどうかはわからない。 当時のことを、ネットで検索してみたがでてこない。  

 それなのに、東京銀行に言及したのは、ある本を読んで、オヤッ?と感じた部分があったからだ。

    

 東京銀行は、外国為替を取り扱って、輸出入業者をサポートするのを旨とした、戦前の横浜正金銀行がそもそもの始まりだから、戦後、東京銀行と衣替えしても、外貨備蓄が不十分な時代には、外国為替業務は、他の銀行より一頭地を抜いていただろう。

  

 もちろん、東京銀行は、普通の銀行業務もするのであるが、現在はともかく、戦後もしばらくの間は、外国為替業務イコール東京銀行という時代だった。 外国為替取引に熟練した、その東京銀行が、岩見沢にあったというその本のくだりには、奇異な感じをいだいた。

   

 その本は、

松本清張『 小説帝銀事件 』   

角川書店 昭和三十六年 八月 十五日  初版発行   

     平成二十一年十二月二十五日改版初版発行   

     P184

 に、東銀の名称がでてくる。

    

以前は、この『 小説帝銀事件 』は、文庫版としては、新潮文庫、文春文庫、講談社文庫には収録されてなかった。 現在はどうであるかは知らない。 

   

そのくだりを抜粋する。

    

『 現送の語は、検事から教わったと言ったり、係長から教わったと言ったりしておりますが、その事実は、九月二十五日第四十回聴取書に書いてあるとおり、検事が現送という言葉を知っているかと尋ねたことに対し、妹婿の岩見沢の東銀の支店長代理から聞いて知っているのだと答えたのでありまして、それを検事から教わったと歪曲しているのであります。』

 

 東銀という略称は、東京銀行に用いる。

 当時存在した東海銀行は、東銀とは略称しない。

    

 岩見沢の高校を訪問した時期は、すでに、石炭は構造不況産業だったが、それでも、まだ好況時だったときの栄華の雰囲気は残っていた。

    

 そして、岩見沢は、夕張よりも都会的だった。

    

 その都会的だった当時の岩見沢では、外国為替業務に熟練した東京銀行は、必要だったのだろうか ••••••。

    

 話しが少し外れるが、銀行が外国為替の業務に精通しているか否かでは、私事ではあるが、22年前になるが、こういう実例がある。

    

 1997年から2000年まで、私は、3年間ほど働くのを中止して、東南アジアとヨーロッパをウロウロした。

    

 パリからバンコクに到着した2000年の3月初旬、クレジットカードはあるものの、トラベラーズ・チェックが少なくなり、現金の余裕がなくなった。 クレジットカードによるキャッシングはやりたくない。 それで、北海道の友人に、前回、# 86 で言及したパスポート送金をしてもらうことにした。

    

 友人が、私に送金しようと手続きした銀行は、札幌に本店をおく銀行である。 担当した行員や周りの行員たちは、パスポート送金のことは知らず、半信半疑だったようである。

   

 22年前とはいえ、その時点ではすでに、ほとんどの銀行は外国為替取引業務をやっている。 その銀行もそうである。 しかし、真に精通していなかったようだった。

    

 通常は、トラベラーズ・チェックの発行か、円から米ドルの現金交換のような事務作業であったろう。 外国への送金も、送金先への振り込みが普通だから、パスポート所持者が現れれば、その人に現金を手渡す手続きなど、もしかすると、詐欺行為の片棒を担がされるか?と思ったかもしれない。 

  

 友人に、パスポート送金を頼んだ数年前から、馴染みのなかったマネーロンダリングという活字が、新聞や週刊誌上に踊っていたから ••••••。 でも、送金してもらおうとした現金は、大金ではなかったんだけどもネ ••••••。

    

 翌日、その銀行の担当者は、私の友人に、「 勉強になりました 」と、叩頭せんばかりの体だったそうである。

(2022年4月16日 記)


 (筆者略歴)

 昭和23年11月に明石町生まれ。鹿島東小学校から鹿島中学校に進み、夕張工業高校の1年の3学期に札幌に一家で転住。以後、仕事の関係で海外で長く生活。現在は、タイ、バンコクで暮らす。



   

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