富士見町6丁目の記憶

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 昭和40年(1965年)頃 富士見町


 私が富士見町6丁目に住んでいたのは小学校入学前あたりから,小学校3年生の頃まで。

 鹿島小学校から帰る時は、校門を出て大夕張鉄道沿いの道を歩き、そこから山の方の坂道を上った。

 反対に、鹿島小学校に行くには、そこから4丁目のあたりまで坂道になっていた。鉱業所に向かうには、やはり東に向かって坂道を下る、いずれにせよ出かけるときは走って下る爽快感、帰りは急な坂道を上らなければならなかった。

 

 

 二軒一戸建で、山側と東側に玄関があった。

 東側には田中さん兄弟が住んでいた。

 2才くらいそれぞれ年上だったが、私たち兄弟とけんかもしたが、仲よく遊んだ。

 

 家の一番おくの部屋の床の間をたたくと、隣の家に伝わり、それを合図に声を掛け合って外で遊ぶのが約束事のようになっていた。

 それ以前は、まだ山の方に住宅があったようで、取り壊された住宅の空き地が高台のように存在していて、そこから山にかけていい遊び場だった。

 日が暮れるまで遊んだ。

  

 ぜんまい、ワラビ、つくし、ウド、ふきといった山菜を採って帰った。

 

 夏はクワガタ取り、沢でのザリガニ、カエル、水をせき止めてのダム遊び

 特に、腐った倒木の幹を割ってクワガタの幼虫を見つけた時には、心が躍った。

 一年を通じて昆虫や動植物の宝庫だった。

  

 写真の場所は、山の斜面をちょっと登ったあたりから、富士見町住宅、炭鉱病院を見た景色と重なる。

白黒写真に着色した画像

 

 山に向かって玄関。目の前に沢。そこから八百五十につながる山の斜面。

 

2件のコメント

  • 気が付くのが遅れしてしまいましたが、田中さんは、よく覚えています。
    ヒロチャンと呼んでいました。弟さんは、やっちゃんと。。。。
    遊ぶ時には、わざわざ玄関に行くより、家と家の間の間仕切りの壁を叩いてそれを合図に遊ぶという・・。
     
    ヒロチャンは確か自分より1、2歳年齢が上だったように思います。
    私の4つ年下の弟と兄弟4人で仲よくしてもらった記憶が鮮明です。
     
     
    夕張岳を望む6丁目住宅は、当時一番山の近くにあり、住宅の上の土手の空き地でいつも遊んでいました。
    おじさんは、日曜大工を趣味にされていて、一度立派な船を作ってそれを近くの川で流して楽しく遊んが記憶が今でも忘れられません。
    大きな化石がアンモナイトの化石が出たという時には、わざわざ家に足を運んで見せてもらったこともありました。
     
    幼い頃の夢と現実がごちゃ混ぜになっているかもしれません。
    昭和40年頃の懐かしい思い出です。自分にとってもこのページの写真は、大夕張の楽しかった頃を思い出させてくれる写真です。
     
     
    書き込んでくださり本当に有り難うございました。
     
     

     

  • 昭和40年(1965年)頃、私も富士見町6丁目に住んでいました。小学校4,5年生だったように思います。
    二軒一戸建で、夕張岳が望める側にいたと記憶しています。
    隣は、確か飯田さんという御宅だったと思います。
    私と弟は4歳違いの兄弟です。

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