八百五十 山の向こうへの思い
昭和40年頃、八百五十山頂からの大夕張。
あいにく対面の夕張岳は雲の中だが、礦業所以北の官行の工場地帯から、千年町・常盤町あたりまでの住宅地が雪の中に黒く見えている。
やまのむこうは? 【丸山直記】1999年02月23日
私は昭和23年6月10日に緑町で生まれました。
その後、鹿島小学校の裏側の住宅に移り鹿島小学校、鹿島中学校、夕張東高校を経て卒業するまで18年間住んでおり、私の精神形成は純粋に大夕張でなされました。
子供の頃は頭の中では世界は広いのですが、実感は全く無く周りの山々の向こうにはもっと美しい街が見えるのだと信じていました。
夕暮れに町が蒼く染め上がり、夕張岳のみが夕焼けで赤く輝いていると、一層そのことを信じたものでした。
小学生の冬のある日、意を決して裏山にスキーで登り、期待に胸を膨らませて頂上について向こうを眺めると
「やっぱり山か!」
と落胆したことを覚えています。
住む予定など全く無かった東京にいますと、がっかりさせられた山々がとても懐かしく感じられます。
やまの向こうへの思い 【飯田 雅人】1999年2月24日
中学校の頃からでしょうか,大夕張の山々の向こうに広がる世界が気になり始めたのは・・。
けわしくそびえる前岳,その後ろの穏やかな夕張岳。美しい山の風景でした。そして,その風景の向こうが富良野市であると,子供の頃地図などから仕入れた知識で知っていました。
でも,富良野から夕張岳はどんなふうに見えるのだろうと,いつも気になっていました。
そして,西側の山々。
あの向こうは夕張へ続く・・・。と思ってはいましたが,実際に登っても見えるわけではなく,確かめることもないまま,そのうち大夕張を後にしてしまいました。
大夕張を出た後,実際に富良野の側からはじめて夕張岳を目にした時,あれほど美しく思えた夕張岳が,ごく普通の山にしか思われず拍子抜けをしました。
ところが,最近気がついたのですが,車での通勤途中に一ヶ所,車窓から美しい夕張岳を望むことができる場所があったのです。JR線を跨ぐ陸橋の頂上附近,そこのガードレールのわずかな切れ目から・・・,しかも空気の澄んだよく晴れた日の車で通りすぎる数秒間。
そのたびに,あの山の麓に大夕張があるんだなあ,と思います。20数年の時を経て,皮肉なことにあの山々に囲まれた故郷への思いがつのります。
八百五十の山頂で 【内川 准一】1999年2月27日
丸山さんの投稿を読んでいて、同じような時期に同じようなことをして、そして、同じ感慨を持った仲間がいたことを知って嬉しくなりました。
当時、鹿島小学校の6年生には850に登る体育の授業(?)がありました。
しかし、当日、風邪か何かで休んだ私は、楽しみにしていた850に行けませんでした。
私にはどうしても850に行きたい理由があったのです。
丸山さんと同じ動機です。
当時、我が家には竹を二つに割って作った柱掛けがあって、それには、
「山のあなたの空遠く、幸い住むと人の言う」
と書いてあったのです。
最初は、”あなた”とはいったい誰のことだろうと思っていたくらいで、もちろん意味はよく分かっていなかったのですが、いよいよ大夕張を出なければならなくなった昭和37年の3月、好天の休日、意を決して、たった一人で山に向かったのです。
ちょっとした冒険でした。
着いた山頂からの眺めは、東を遮る巨大な夕張岳と、それに続く山また山でした。
しかし、それ以上にびっくりしたのは北の方角でした。
山、山、山、山、山・・。
饅頭のような山々が無限に、重なり合って連なっていたのです。
見渡す限り町も無く、家も人も道路さえもない景色が広がっていました。私の故郷大夕張は、周りに誰も住んでいないような山奥に、置き去られたように存在していたのです。
このときの落胆した気持ちは、きっと丸山さんと同じです。
しかし今、人の住まなくなった今となっては、周りの自然と一体になった大夕張が、想い出の中の大夕張とはまた違った形で、存在し続けて欲しい。
(けれど、小学校だけは残してね!)
その後、40年ぶりに八百五十に登った内川さんの登頂記は、こちらで読むことができます。