礦業所所長宅前 山神祭
2020-08-25
2020-08-26
12309
昭和44年 6月
富士見町3丁目。鉱業所所長宅前。当時は、望月所長だったでしょうか。
正面の建物は礦業所の倶楽部。右手に木々がこんもりと繁るところは、倶楽部の庭にあたります。蓮の花が咲く池や、手入れの行き届いた芝生があり、板塀が張り巡らされていました。下の隙間から良くのぞき込んでいた覚えがあります。研修医時代の渡辺淳一が炭鉱病院に勤務した時に、一時滞在していたと言われています。
銀色の配管が、地中を貫いています。このような配管は街中で見られたものです。
写真中央、住宅の前に、茶色いアクのたまりが見えます。家庭で使用した石炭ストーブの灰捨て場です。各家の前には、必ずといっていいほど見られたものです。
右手の坂を下ると、啓心寮。
写真手前の道端にはお祭りの手作り行灯が見えています。
多分、私が小学生のころ 早稲田を卒業後、春日町詰め所に配属された 望月さんではないでしょうか?
親父から 「望月さん、三菱セメントにいるよ」と聞かされ 訪ねたことがあります。
その望月さんは、昭和40年代、三菱鉱業セメント本社(現在 三菱マテリアル・丸の内)に転勤されました。
電子計算機と呼ぶ時代、私は、三菱グループを相手に仕事をしていましたので ちょくちょく丸の内を訪問していました。
いつの時期か定かじゃないですが 大学卒業後まもなく 三菱鉱業セメント本社に伺い 食事をご馳走になりました。
大夕張会会長引退する4年ほど前、晩年の望月さんにお会いしました。
今も元気かな?