昭和28年 大夕張劇場
2022-03-11
43179
昭和28年(1953年)の大夕張劇場。左端に写っているのは永原呉服店。「呉服大売り出し」の幟が見える。
昭和31年、三菱バス山内線開通後には、『劇場前』のバス停があった。
ここは、四つ角の交差点になっていて、昭和43年頃には、大夕張劇場はすでにパチンコ店になり、西側に、サトミ会館、永原呉服店の西側には、志村菓子店があった。
一応、『大夕張劇場』の簡単な経緯をたどると次の様になる。
- 昭和4年(1929) 指定商24名,7号の沢の緩傾斜地(千年町市街)に入地。12月7日,近藤利作が大夕張劇場を千年町に建築開館する。炭砿の勤務と合わせながら土・日のみ開場した。土間むしろ敷きであった。
- 昭和15年(1940) 12月25日,岩見沢の新田睦吉の経営となる。
- 昭和18年(1943) 6月 映画常設館となる。
- 昭和24年(1949) 10月29日,岩見沢新田興業株式会社に経営が引き継がれる。
- 昭和30年以降 テレビの普及とともに廃れ,そのあとにパチンコ店,そして鶏鳥店と変遷をたどる。
『市制10週(周)年記念』の塔がたつ。夕張町から市制施行により夕張市になったのは、昭和18年(1943年)のこと。開基55年は、由仁村戸長役場より分離、登川村戸長役場として独立した明治30年(1897年)年を基点に数えたものだろうか。
パチンコニュー三洋と大井質店での景品交換 【福山 美佐子】
幼い頃、劇場があったのはかすかに記憶があるんですが、その後すぐにパチンコ屋さんになりました。
『パチンコ ニュー三洋』という名前を覚えています。
韓国の方がやっていたのか、チマチョゴリを着ていた女性がいたのを見たことがあります。
パチンコ屋さんからお客さんが現金に引き換えにするのに持って来たのが靴下。
質屋のカウンターで受け付けてました。
その靴下が何足あるかで現金に引き換えていました。
今の様にカードみたいなものではなかったんです。
祖母がその靴下を数えて、またパチンコ屋さんに持って行ってました。
この記事に出会えて大変嬉しく思います。というのも、近藤利作は私の曽祖父であり、父と伯父から大夕張劇場の話を聞いていました。祖父の名前は近藤和吉で、私は曽祖父と祖父の名前から一字ずつ頂いて「和利」と名付けられました。近藤利作はその後愛媛県に帰郷し、祖父が時計屋を企業、現在では伯父がその店を引き継いでいます。