大夕張掲示板
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思い出やエピソードなどは、『思い出貼』をはじめ、各写真や記事のページで残すのが良いと思います。
ここでは、それ以外の、連絡、メッセージ等、気軽にお使いください。また、このページの作成にかかわるMasaが、その時々テキトーにつぶやく場にも使っています。
画像その他資料を5MBまでアップロードできます。Attachment-「ファイルの選択」ボタンから送ることができます。ご要望があればそれ以上でも対処できますので、ご連絡ください。
サイト作成にご協力いただける方は、その旨ひとこといただけると嬉しいです。
コメントへの「返信」は各記事から、「新規投稿」は一番下からどうぞ。
尚、投稿の件数が、50件を超えると、新しいページが作成されます。
以前のページは、ページをスクロールしていくと表れるコメント欄の左上にある「以前のコメント」をクリックすることでみることができます。
備忘録-
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宝町
昭和33年白地図 鹿島荘から暁荘まで建物が並ぶが、昭和47年頃には、千年児童公園になっている。
「カテゴリー」に「東京大夕張」を追加しました。
(1丁目1番地)の写真掲示板に投稿された過去の写真を転載します。
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「同窓の仲間」→「同郷の仲間」に変更しました。
同窓会の写真を送っていただきました。
『同窓の仲間』というカテゴリーを追加し、そこに写真を入れていきます。
卒業されず、転校された方も多いと思います。
卒業年次をもとに懐かしい顔を見つけることもあるかもしれません。
また、卒業年次にこだわらず、
大夕張を出てから集まった仲間、
大夕張に思いをよせる仲間、
いろいろな集まりがあると思いますが、自分も過去に参加した集まりの写真をいくつか掲載していきたいと思います。
メニューバーの、カテゴリーを一部変更しました。
これまで、「夢の街」ー「写真」という項目を
「夢の街」ー「ギャラリー」として、「ギャラリー」の中に副項目として、「写真」「絵画」を置きました。
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これまで同様よろしくおねがいします。
データ(ページ)の数が多くなってきて、(1500越えも間近です)見ようと思っていたページを探すのが大変・・・
そんなことばを聞いたり、自分でも感じていて、利便性を高めるため、『検索窓』をオリジナルのものから、『Ajax Search Lite』というプラグインを入れてみました。
いままでのものがシンプルだったとすれば、いろいろと機能がついています。
しばらく試して見ようと思います。
『ふるさと大夕張2丁目3番地』に来てくれている人には、あまり関係なくつまらない話だと思いますが、サイトの作り手として備忘録的に書き留めておきます。
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2021年4月20日に、アドレス変更しました。
それまでの『www.ooyubari.razor.jp/fo』から、
『ooyubari.com』と、恐れ多く(!)も『おおゆうばり・どっとコム』というアドレスでスタートしました。(ooyuubari.comのアドレスの『ふるさと大夕張2丁目3番地』・・・といちいち言うのも面倒なので、ここでは、以下『大夕張どっとコム』で通します(^0^;)
直接トップページにリンクを貼っている人にはかんけいないのですが、検索サイトや、フェイスブック、ツィッターといったところから来ている人には、4月20日以前のアドレスに飛ぶようになっていました。
当初、、ワードプレスのプラグインを導入して、ダイレクト機能を使って、『大夕張・どっとコム』にとばそうと考えましたが、不具合が出て、うまく機能しませんでした。
_
本日、最後の手段としてあまりいじりたくなかったのですが、『.htaccess』というサーバー内のファイルを書き換えてやってみたら、あっさりとうまくいきました。
–
で、・・・・
まず、検索サイトや、ツイッターからのリンクからは、何ら意識することなく2021年4月20日以前のリンクから瞬時にこちらの『大夕張・どっとコム』にとんできます。
_
_フェイスブックについても、リダイレクトの機能はきいていて、問題はないのですが、ただ投稿によって、写真のプレビューが表示されるものとされないものがあるようです。こちらは、ヒマを見ながら、投稿の編集からプレビューの更新をしていきます。
_
最後に、各ページの内容について、修正をかけながら更新をしてきているので、更新したページについては、それ以前のリンクが切れてしまいますので、ご注意ください。
鹿島小学校40周年開校記念誌、サイト移転の際、データが読めなくなっていたようです。
復旧しましたので、スライドショーで読めるようになっています。
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https://ooyubari.com/category/siryo/hondana/kaiko40syunenkinensi/
2021年5月17日、夕輝文敏さんの『迎え人(びと)』を掲載しました。
2009年の『タイムカプセル』以来の新作です。
新作の掲載を機会に、今後、一週間に一度の予定でこれまでの作品を一作目から順に装丁を若干手直し、更新する予定です。
白地図の編集を現在やっていてあらためて気がついたけれど、白地図のページは、タイトルがバラバラ、縮尺も、方位もバラバラ。大夕張に住んでいたみなさんはわかるだろうけ、見にくい。
_
縮尺は無理にしても、まあ機会を見て、東西くらいはそろえたいとは思うけど、何しろ参考にしている資料が、東西見る方向が異なっているので、難しい。時間がかかるだろうな・・・・。
「これまで読まれている記事」から
「今週 読まれている記事」に。
今週のアクセス数の順位標示にしました。
【更新しながら、独り言】
5月しばらく快晴の良い天気が続いている。
5月、6月は、北海道に住んでいると、一年でも本当に良い季節だ。
運動会、お祭りと夏を迎え賑やかな季節だった。
現在、一年がめぐり、またお祭りの写真に着色作業をしているが、色があふれていて賑やかだ。
幟りがさわやかな風にはためき、街が紙桜に飾られ、行灯、提灯が立つ。笛や太鼓の音までも聞こえて来そうだ。
『ふるさと大夕張2丁目3番地』も開始後、1年以上が過ぎページ数も1430を超えた。
引越し作業も終了間近かと思いながら、時々『1丁目1番地』の方をみるが、どうしてどうして、まだまだ道は遠い。
ハードディスクの中をのぞくことがあるが、そちらにも『1丁目1番地』で公開を予定しながら着手できなかったものも多い。
1年や2年で終われるようなものでもないようだ。
引越しということで、既出のものが多いとは思いますが、よろしくおつき合い下さい。
_
自分にとっては、引越し作業をしながら、足を踏み入れることの難しくなった故郷の地図を記憶の中で作成しているところです。
1961年(S36).8.6 北海道新聞掲載の「大夕張市街」空撮写真送付の件
添付する掲題の写真は、大夕張ダムの湛水開始後で明石町の下流はダム湖が形成され、常盤町の水没
区域も計画通り水没しており貯水が満水に近い水位状況から、掲載年の1961年(S36年)の写真
と思われます。(撮影日は道新に確認していない)
掲載写真の入手経緯は古い掲載記事を入手する時の参考になると思い、長くなりますが下記に記載して
みます。
1.記事は小生が切取り、S37年3月中旬に就職で大夕張を離れる時に高校の卒業アルバムに挟んで持参
し保管していました。
2.最近、記事を見た時、約60年の保管で紙面が劣化して不鮮明になっているので写真だけでも鮮明な
プリントを入手出来ないか調査をしてみようと思いました。
3.3/下旬”道新読者センター”にS37年頃の掲載記事&掲載日の検索方法をTEL問合せ。(記事切取
り時、掲載日のメモ取をしてなかった)
4.1988年7月以前の新聞は”北海道新聞”内では保管されておらず、国立国会図書館で所蔵しており
TEL問合せ&ネットにより利用方法調査可と回答有。
5.国立国会図書館のHPで「WEBサービス一覧→所蔵資料→専門室案内→新聞資料室→リサーチナビ
新聞を探す→日刊紙県別一覧→1. 北海道・東北地方の日刊紙県別一覧→北海道新聞:昭和17年11月
~現在(請求記号:YB¥19)と検索し、年月毎の所蔵場所・所蔵No.までは検索出来たが、掲載日は
特定出来ない。所蔵品は35mmマイクロフイルムロールで保管されている。
6.3/23日 国立国会図書館の「インターネット限定登録利用者」に登録し、検索要領・複写可否等
TEL問合せ。
7.複写は可であるが、記事の年月日掲載日の確定が必須条件。(国会図書館ではマイクロフイルム内の
検索は業務外)掲載日の確定には地方の公立図書館で国会図書館の検索システムが利用出来るとアドバ
イスを受け「日立市立図書館」で調査して戴いたが、マイクロフイルムの中のデーターベースが作られ
ていないようで確定不可であった。
8.直接国会図書館に入館し、閲覧フイルムリーダで検索・複写も可能ですが、コロナ過の上京は気が進ま
ず、道新への調査依頼可否を再検討した。結果、掲題記事の裏面記事は道新主催のイベント記事であり
、その資料が保存されていて調査してもらえないかと考えました。
9.4/6(火)イベント担当部署の”道新事業センター”にTELし、目的を説明し、メルアドを教示戴けた
ので掲載記事等を添付し、調査依頼をお願いしたところ、受けて戴けました。
10.道新とメールをやり取りした結果、掲載日確定・写真原版有・写真プリント入手可と目的が達成出来
ました。添付の写真は”道新写真サービス”より4/15(木)受け取りました。
飯田様 長い文章となり申し訳ありません。添付する「大夕張市街」の写真を「ふるさと大夕張2丁目
3番」で利用することは問題ないので使用OKです。写真の著作権は1966年に有効期限が切れて
いるのでHP等への使用許諾は不要ですと道新に確認しております。ただ、使用時に「1961(S36).8.6
道新に掲載した写真」等のコメントを記載頂けると有難いと確認時に話しておりました。
尚、上記内容は4/18、19日に飯田さんのメール(…@mta.biglobe.…)宛に添付資料(掲載記事、
道新とのやり取りメール、「大夕張市街」掲載写真等)を含めて送信しておりますので ご確認頂け
れば幸いです。
ー以上ー
写真、拝見しました。
上空からの大夕張、すばらしいです。
かなりの高解像でみることができるので、しばらくの間眺めながら、上空散歩を楽しみました。
すぐに、自分の記憶が刺激されて、思い出す場所が何ヶ所かありました。
代々木町・弥生町・春日町のあたりも北側からみる写真も自分は初めてです。
みどころ満載です。これからじっくり見ていきたいです。
_
日付不明の昭和36年の新聞記事の切り抜きから、ここまで復活された記録は、「すごい」の一言です。
新聞記事の中から関連の記事を探すことは、困難なことだとは、人伝に聞いてはいましたが、読んでいて、気の遠くなるような話で、自分ならきっとこの段階で諦めてしまっているなと思いながら、読み進めました。
最後は、裏面記事が決め手になるというのも、スリリングな展開で、そんな奇跡のようなチャンスの結果で、この写真をこうして掲示場を通して自分が見ていられるというのも、不思議な縁です。
_
写真はもちろんですが、貴重な記録も今後の参考手引きとして活用させていただきます。
ありがとうございました。
_
メールの方ですが、あらためて4月18日・19日の分、見てみましたが確認できませんでした。
一応全部のフォルダ中を見てみました。中には入っていないようで、見付かりませんでした。
どこかでなにかの手違いがあったものと思われます。
申し訳ありませんが、自分の方から岩田さんの方にメールを送りますので、そちらに添付返信の形で送っていただけないでしょうか。
お手数をかけますが、何卒よろしくお願いいたします。
飯田さん こんにちは! 連休に入りましたが本州の今日は雨です。人流が止まって良いかな?
新谷先生のやり取りの記事を読ませて頂きました。私は先生の授業を受けたことは無かったですが、
中3で同クラスだった息子は、夕張北高に進学して、野球好きで、軟式野球部に入っていて練習試合
で対戦した記憶があります。卒業後お互い消息は分からなかったのですが、2003年(H15)に
札幌で還暦を祝って鹿島中の初めての同窓会が開催され、その時に再会出来ました。
–
書式の件、丁寧で詳細な説明を記載頂き有り難うございます。参考になりました。
作成文で、英数字やカタカナを半角で打ち込む癖がついているので字数の管理に気を付けます。
–
貼付要領は画像ファイル”JPEG”にするのですね。住民登録時、ファイル選択に”PDF”を
選択したらファイル選択枠の右外にファイル表題は表示されたが貼付けはされませんでした。但し、
コメント枠内の左最下段に添付したファイル表題が表示され、表題をクリックするとPDF内の画像
が表示されるので機能的には問題ないと思われます。
ー以上ー
岩田直彦さん、常盤町・千年町で住民登録 有り難うございます。あらためまして、「おかえりなさい」
昭和24年頃まで、宝町の教員住宅向かいに住まわれていたとのこと。
私の祖父の長谷川安造は昭和32年まで教員住宅にいたので、ご近所ですね。
_
鹿島東小学校担任の浜出榮子先生は、私の伯父の姉でした。狭い地域の中なにがしかのご縁があります。
_
・・・以上が、4月25日書いたコメントですが、あらためて投稿し直してくださりありがとうございます。
『常盤町水没家屋』の写真たいへんわかりやすいです。
それと、PDFファイルは、クリックしないと内容表示されないのですね。
今回、自分も初めて知りました。
こちらにも岩田さんが投稿してくださった『常盤町水没家屋』をJPGファイルに変換してアップしておきます。
ありがとうございました。
_
どうぞよろしくお願いします。
飯田さん 返信有難うございます。
向かいは鹿島中の新谷先生宅で、息子が私と同年で中3の時同クラスでした。
浜出先生と親戚なのですね! 優しかった先生と記憶しています。
先生の勧めで先生の自宅 本覚寺で住職さんに習字を習った事を思い出します。
–
改行の件ですが、確かに読みにくいですね。私の希望ですが、4/25日の住民登録を削除する事が出来
るならば削除して戴きたいとお願い致します。 改行位置を全角49文字以下/行に修正して再住民登録
を致します。
-確認-
「大夕張掲示板」コメント枠内のコメント記事最下部に「写真や資料」を貼り付けている例が多数有り
ますが貼付要領を教示戴けますか。コメント者がコメント枠内に貼り付けているのですか?。
宜しくお願い致します。
岩田さん、こんばんは。
_
鹿島中の新谷先生?心にひっかかっていて、もしやと、高田商店のページを読み返していました。
↓
↑
新谷先生は、私の祖母長谷川(新谷)クニの弟でした。当時、私の母から聞いて、馬屋原さんと、メッセージのやり取りをしていました。
二十年前のやりとり・・・、忘れていました。新谷先生とは、親戚同士行き来していたんだそうです・・・・。
_
これも自分の書き込みの中にありました。やれやれです笑。遠くなりました。
_
_
書式ですが、二行目以降のインデントが設定されないので、
_
『。』で、あるいは、『行を変えたいところ』でエンターキー!を、心がけています。
文頭や、文の途中にスペースを入れると、文章表示が崩れるようです。
(ちなみに、スペースだけの行も認識されないので、自分は『_』をうって、行をあけるようにしています。
_
これは、PCや、スマホ、タブレット等で表示されると、表示される一行の文字数が機器によって異なるることに対応した仕様なようです。
_
うまく説明できずにすみませんが、参考になれば幸いです。
4月25日の投稿の件、了解しました。
_
最後に「写真や資料」の貼り付け要領ですが、投稿者の方が、貼り付けできます。
要領を画像ファイルにして貼り付けますので、参考になるでしょうか。
何かありましたらご連絡下さい。
よろしくお願いします。
↓縮小表示されているので、画像をクリックして拡大してご覧ください。
ooyubari.com に移転して、3日ですが、いくつかのファイルがコピーされずに表示されない記事があるようです。
見つけ次第アップしていっていますが、しばらく修正期間必要のようです。
記事をもう一度見直しながら、楽しむことにします。
2021年4月20日深夜から、こちら、ooyubari.com ドメインに移行しました。
こちらが、最終形になると思います。
これまでの ooyubarirazor.ne.jp は、しばらく残しますが、管理上手間が倍かかることになるので、こちらは様子を見て閉鎖しようと思っています。
お手数ですが、リンクを ooyubarirazor.ne.jp に貼っている場合は、 こちらの方にお願いします。
自分のための予告編
_
看板についての、コメントを3月3日の掲示板で書きましたが、どうやら一段落。
『技』にも多少めどがついて、写真の着色作業に少しずつ生かすことができています。
なので、今後は、商店街の写真を更新しながら、掲載していくことができそうです。
備忘録メモ
『ふるさと大夕張2丁目3番地』のいちおうの完成形は、
内容的には、
・『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)のデータの移行
もう一つ、サイトのあり方として、セキュリティを高めること、
・https://~で始まる、サイトに仕上げること。
_
二番目の問題については、自分的にはどう違うかよくわからないのだが、最近は開く度に、「サイトの安全が~」の表示がされるようになってきていい気持ちがしない。公的なサイトや、業者のサイトでは、「https://~」で鍵がかかるサイトになっているようだ。個人のサイトについては、レンタルで借りているサイトはともかく、個人の運営のサイトではまだまだ『http://~』で始まるところもおおいようだが、「サイトの完成形、仕上げ」という意味では、やはりしっかりしたものにしたい。
実は、昨年中にドメインを取得し、サイトの原型はつくってある。
あとは、こちらのデータをそっくりそのままコピーをとって、移行すればいいのだが、そこが簡単にいかない。
まだ、頭を悩ませそうだ。
最近ずぅ~と、『2丁目3番地』で駅前商店街を散歩しています。
下の記事で、駅前商店街の『住宅地図』での不備を嘆きましたが、ますますその感を強めています。
たとえば、昭和45年で、『石田時計店』は、大夕張駅からみて通りの右手にあることになっていますが、写真を見ていくと、石田時計店の看板は、大夕張駅から見て、通りの左側にかかっているのです。
????
手持ちの資料はそんなにあるわけではないですが、航空写真や地図を何度も眺めてみたり、駅前商店街の看板の写真を見ながら、『大夕張の街歩き』を楽しんでいます笑笑。
【駅前商店街】補足
_
駅前商店街の地図を修正したんだけどやっぱりヘンだ。
高橋電器店と、谷野書店は、駅前通りの帯向商店の向かいあったはず。
だけど、この住宅地図では、協和会館の向こう弥生町にあることになっている。
協和会館の向かいは、組合や、弥生町の弥生町の浴場が並ぶ。
図にすると
大夕張駅
↓
==== ===
||荒川
谷野書店||帯
高橋電器||向
明治生命||
労 組 ||
浴場 ||協和会館
==== ====
弥生詰所||代々木アパ
こんな感じだとおもうけど、商店名ばかりでかくてなあ・・・・。
入りきらないからこうなるんだろうなあ。
不正確だよなあ・・・。
なんとかしたいなあ。
大夕張鉱業所の建物配置図に名前を落としていくしかないのではないでしょうか。
これ建物配置の地図なんですが、いざ落として行こうとすると、各棟の中にどの店舗が入っていたのか知る必要があり、駅前商店街の写真を色付しながら観察して、看板を一生懸命観察しているところです、目が痛くなります・・・笑。
そして、写真を見ているとけっこう頻繁に経営者が変わったり、店の業種がかわったり、ということがあったようで、これもきりがない笑
板長さん、宝町で住民登録 有り難うございます。
昭和55年頃から、昭和59年までの大夕張ということになるでしょうか。
自分は、閉山前の昭和45年ころ中学卒業までの記憶です。
_
高校時代、青春まっただ中の大夕張。
素敵な思い出をたくさんお持ちなのでしょうね。
当時の様子もいろいろ教えていただけると嬉しいです。
食憶のコーナーは、今日で終わり。
それにしても何度読んでもあの土地、時代の気分を味わえる。
長谷川さんとは、歳も近いので、昭和30年代から閉山頃まで大夕張を経験している。
今日で終わりだけれど、ブログの良さは、データの蓄積だし、投稿型のサイトにもしばらくしたら配信し続けるつもりです。
2020年の12月17日に書き込んでいた『白地図』のはなし・・・。
今見たら、カテゴリーにも、入ってないで、まだそのママになっていたみたい。
今夕の更新でデータを入れます。
代々木町・春日町・弥生町の白地図・・・というか、まだ素材そのままの状態なんですが。
できたところまで、とりあえず上げていくようにします。
自由に塗り絵ができるようになって、
自分の中の記憶で昔を再現するもよし、
公園マップもつくるもよし、
ダムの湖底に潜む精霊たちが作り上げる未来都市を造るもよし・・・
いかん、妄想がひどくなってきた笑。
今着色中の写真の一部ですが、栄町アパートから見た幼稚園の全景です。
そういえば、幼稚園の玄関の建物につづいて線路側に古い園舎が続いていました。
園児の数も相当いましたら、このくらい広かったはずですね。この角度のからの幼稚園は、あまり見なかった写真なので、わすれないうちに笑、アップしときます。
栄町からの幼稚園の建物が見えたついでに、昭和34年ソニー号からの上空写真をキャプチャー。
こちらの写真も今後、素材として使って行こうと思っています。
ソニー号が鹿島小学校グラウンドを出てすぐ、だから、富士見町2丁目あたりの上空から幼稚園の全体が写っています。
栄町の通りに面した新しい園舎は、記憶にあったけど、富士見町側の大夕張鉄道沿いの古い建物は記憶になかった、というか、今まで忘れてしまっていた。
_
あらためて大きな建物だったんだなあ、と思う。
新しい方の玄関が入ってすぐのところの大きな建物は、講堂のような広さのスペースがあり、3月3日の節句には、雛人形の段を飾っていたようなことなどを、この写真を見て、思い出した。
大夕張の商店街の写真を着色していて、いまさらながら気がついたことだけど、昭和45年頃のネオンサインや、看板は大夕張に限らずいろんなところで使われていた。
ネットで、画像検索をしてみると、まあ、出てくる、出てくる。
これ使わない手はないな、という気がしてきた。
使う「手」はあるが、「技」があるかどうか(笑)。
それが問題だ・・・・。
(お知らせ)
Kawauchiさんからの「思い出ばなし」の記事が多くなりましたので、「夢の街ー回想随筆ー思い出の記」として独立したカテゴリーにまとめました。まとめてお楽しみ下さい。
↓
https://ooyubari.com/category/yume/kaiso/omoidenoki/
↑
Masa様
秋月 涼(HN)と申します。
先日は、私の2014年の「訪問記」を『2丁目3番地』に改めて登録頂き、有難うございました。
さて、昨年2020年10月に旭川空港ゆきの飛行機に乗ったところ、ちょうど大夕張の上空を経由しました。
簡単にまとめましたので、もしよろしければご覧ください。
http://ryoa.sakura.ne.jp/photo/ooyubari_2020/
こちらのサイトで大夕張炭鉱があった頃のお写真を拝見しておりますが、
カラー着色の試みは、人々の服装や、建物の色、空や森などの背景についての臨場感が白黒よりも高まっており、
大自然の懐に抱かれた賑やかな炭鉱町の暮らしについて、興味深く拝見しております。
明日から3月に入るとはいえ、まだ寒い日々が続きますが、どうぞお元気でお過ごし下さいませ。失礼します。
秋月様、書き込みありがとうございます。2014年の掲示板の記事の訪問記への転載にもご理解いただきましてありがとうございます。
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1分21秒の「大夕張銀河鉄道の旅」、YOUTUBEから大画面で堪能させていただきました。上空からの解説と鮮明な映像で楽しませていただきました。
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上空からの映像は、秋晴れの鮮明であるが故に、切り刻まれた大地が、昔子どもの頃、父親が買い込み家に沢山あった太平洋戦争写真集中の、沈みかけている無残な空母の甲板を思わせいささか切ないものがありました。
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それでも尚やっぱり故郷の景色は、やっぱりふるさとで、見ずにはいられません。こわいものみたさと、ふるさとを追慕する人間の性(さが)でしょうか。笑。
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2020年の素敵な大夕張の映像をありがとうございました。次回の訪問記の投稿も楽しみにさせていただきます。どうぞよろしくお願いします。
_
大夕張まち歩き
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駅前商店街を散歩していたら、・・・ 昭和48年閉山前後の駅前商店街の鹿島小学校郷土室所蔵の写真をみていたら、先日「資料室ー広告」のページにアップした「サロンけんぽ」の看板が出ていた。
『池田屋食堂と鹿島旅館』のページの写真を撮影した場所より、協和会館の方にやや下った場所で、大夕張駅に向けて撮影している。
「荒川商店」のとなり、「あいば食堂」の建物に看板がかかる。
昭和43年の地図では、荒川商店のとなりが帯向商店。
帯向商店の覚えはなんとなくあるが、大夕張を出たか出ないかの時期で、自分の「あいば食堂、サロンけんぽ」の記憶はない。
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店も経営者や名前がよく変わっていたんだなあと思う。
ところで、「あいば食堂」が健保会館に出店していたから、「サロンけんぽ」だっただろうか?
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webの『ふるさと大夕張2丁目3番地』から、FaceBookとtwitterと連携している。
最近、コメント欄からツィートの方に貴重な資料にリンクをシェアさせてもらっている。
便利な機能なんだけど、意外に手間がかかる。
twitterとwebの間をいったりきたり。
けっこうせわしない・・・・。
画像作製?修正を主にやってるので、こちらの作業は、ゆっくりのんびり、見返しながらとなりそう。
本当は、FaceBookとtwitter間のやり取りもしてみたい気がするけど、多分双方にアカウントの問題等もあり、あんまり相性が良くなさそうで今のところ手を出さない。
ページの数も1300を超えて、数が多くなると、探し易さが肝心。
メニュー以外に『検索窓』、『カテゴリー』『サイトマップ』などで探しているが、それでも数多く出てくることもある。
『2丁目3番地』をスタートするときに、『タグ』も重要だと思いながらも、ワードを欲張ったこともあって、混乱した。
『思い出貼』(主に写真のページ)は、最近の『タグ』の約束ごととしては、『和暦』『西暦』と『場所名』をつけてきた。今後、全体の整合性を考えて、『場所名』は、「散歩道」の町名に合わせたものにして行こうと思う。
以上、『ひとり言』です。
今、鹿島中学校二年生の時の文化祭の時の学級写真に着色しているけれど、驚いたことに、こちらは一人一人の名前がすらすらと出てくる。
まあ、いろいろあった学級だけれど、中学生にもなると、記憶も今につながるということか。(ひとりごと・・・)
長谷川潤一さんの『食憶』、メニューから、夢の街→回想・随筆→食憶の中に位置づけました。
記事が多くなっていたので、これまで探しにくいところもあったので、それを解消するためです。
『食憶』は、全部で14話ありますが、読みやすくするために、一話ずつ完結させて、配信して行く予定です。
先日、一時間ほど、Aさんと、電話で話をする機会があった。
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その中で大夕張の話題がでてきたので、ここに書き留めて置こうと思う。
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鹿島中学校三年生の頃、転校することになった。
転校先でもなじめず、私の家に同居して(私は小さかったので記憶はない)鹿島中に再度通った。
鹿島中学校時代、勉強道具を学校におきっぱなしにして、母親にしかられ、一週間ほど、家出をしたことがあった。
家を出ている間は、八百五十のヒュッテにこもった。
中学校の校長に説得されて出た。
_
季節を聞いた、「真冬だったが、薪ストーブもあり平気だった。」
まあ、根性のある人だと思った。
色付け写真の更新がすっかり主になっています。
当然ですが、色を付けるということは、写真の隅から隅まで、写っているものに意味を与え、わからないものには、とりあえず自分なりの解釈をしなければなりません。
もちろん大夕張のあの年代、あの土地のすべてを知っているわけがないし、自分が写した写真でもないので、状況を想像するしかないです。
いままで、掲載してきた写真でも、そんな見方はしてきませんでした。
ボーッと全体を見ていました。今では、特に集合写真なんかは、一人一人のお顔と対面し、話をしているような気持ちになります。
人物や、背景について思いをめぐらせる、タイムトラベルをしている楽しい時間です。
以上、HP更新の合間の「感想文」でした。
これまでと、更新方法変えたので、最初に表示されていた『最近の記事』の表示をやめました。
もうついてきません笑。
いままでどおり、上から順に「更新」した記事、「新規」の記事が表示されるようになります。
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コロコロ変わりますが、いつも試行錯誤です。
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年とともに一年が加速度ついて過ぎていきます。
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それでは、どうぞみなさん良いお年を。
下の白地図の話、まだデータを入れていません。
だったら、書くなという話なんですが、思いつきの一端を書き留めて置かないと忘れてしまうので💦
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思いつきついでに、備忘録の中に『あらかると』という項目をつくります。
中に、素材的なデータをあげていきます。
当面は、各資料の抜き書きをしていきます。
内川さんが、夜の大夕張で、孤独の中に身を置き、ふるさとと対話をして「大夕張の夜」という文章を書いていました。
自分は、PCと向かい合い、薄暗い部屋で、『2丁目3番地』を作りながら、父や母、親戚がたくさん住んでいた、そして、もうなくなってしまった古里と、対話しています。
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こんなことがしたいと、思いは膨らみ、妄想は広がりますが、やるとなるとなかなか進まないのが常なので、思ったことは「とりあえず」「かたちに」というわけで、「メニュー」→「資料室」→「地図」の中に「白地図」という項目を作りました。
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今は、自分、写真のお絵かきに忙しい毎日ですが、本当は、白地図を使った「ぬり絵」も、したいという気持ちがありまして、そのネタの保管庫として、とりあえず、白地図の資料をそこにおいておくことにします。
どうしていくのかは、また思いつきのまましばらく寝かしておいて・・・・。
Masaさま
ブログ「煙の記憶」管理人の海も好きでございます。
この写真を撮ってる立ち位置は錦町だったでしょうか?SLが走る築堤の向こう側が宝町だったでしょうか?
何だか記憶がとても曖昧なのですが、宝沢と呼んでた気もします。
大夕張と千年町の間で間違いないと思うのですが・・・
住民の方々は、この坂を上り下りしてたのでしょうが、冬の除雪とかどうしてたのでしょうね?
昭和48年秋頃の撮影だと思います。
↓煙の記憶のURL
https://umimosuki623.blog.fc2.com/
これはまた貴重な写真をありがとうございます!
この立ち位置は、当時はすでに鹿島錦町になっていたとおもいますが、ちょうど、泉町から坂道をあがってきたところ?
宝沢を埋め立ててつくった築堤。向こうに建物が見えています。宝町の建物らしいですね。
正面に坂がはっきり見えています。
自分の住んでいた富士見町方面からは千年町に行く時、3つのコースがありました。
①岳富町の商店街を通っていくコース。一番よく使いました。
②鹿島小学校の裏から泉町の中を通って宝沢を迂回してコース。おそらくその道の途中からこの写真はとったんじゃないかと思いますが、どうでしょう。
③そして、鹿島小学校から線路にそって、この築堤沿いの小道をいくコースだったと思います。道路というよりも、小道という表現がぴったりだったような気がします。冬は雪をこいでいくのたいへんだったでしょうね笑。泉町の生活道路といった感じらしいです。
昭和26年に鹿島東小学校が出来るてから、この地域は鹿島東小の通学区域になったらしいですが、それまでは、この道路を通って鹿島小学校に通ったという方もいるようです。
上の写真は下の道より、錦町寄りの気もします。このような道が築堤沿にいくつか作られていたんでしょうね。
↓
詳細な解説ありがとうございます。
たぶん、➁でしょうね!何となく記憶が蘇って来ましたよ。
久々湊眞一さまの写真がとても分かり易く、そこを真横から撮ったのだと推察しました。
何かのキッカケで、忘却の彼方にある記憶がイッキに蘇るって事がありますよね。
当方の「煙の記憶」ブログの鉄道写真、殆んどは昭和47~50年頃に撮ったものです。
実は押し入れ整理の流れのなかで廃棄処分寸前でした(笑)
友人からネガを直接にデジカメ撮影しデータ化したら・・・のアドバイスを受けて、
ついでに始めたブログでした。
その過程で大夕張の頃の写真を見るにつけ、懐かしがったり記憶喪失だったり(笑)
大量のネガは処分しなくて良かったと思い、友人には感謝してます。
発掘作業は道半ばですが、また何か発掘したらUPしますので。
↓煙の記憶のURL
https://umimosuki623.blog.fc2.com/
しばし、海も好きさんの写真と、久々湊さんの写真を見比べてしまいました。
よーく見てみると、2枚の写真ともに、宝沢の鉄橋の橋脚が写っていました。
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上空から見るといいんじゃあないのかと、ふと思いつき、空中写真を見てみると、昭和52年の写真に見やすく写っていました。
これだと街との位置がわかりやすいと思いました。
そうすると、海も好きさんの写真の向こうに写っているのは、岳富町?
いずれにせよ、自分が思ったより、北側にあったようです。
実際どうみえたのか、確かめる記憶は、ないわけで。
こうして写真で残されているのは、本当に貴重なことですね。
あらためて、感謝です。
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おかげでちょっとすっきりしました。
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↓昭和52年の国土地理院の空中写真の一部です。
道がよく見えます。
Masaさま
ブログ「煙の記憶」管理人の海も好きでございます。
大夕張の住民ならば、必ず目にした光景ではないでしょうか?
この頃の三弦橋は、ダムの水が引けば、かなり橋脚が見えて高かったのですね。
今は新しいダムのおかげで水没と聞きますが、貴重な橋がそれで良かったのかと思ったりしてます。
昭和48年夏頃の撮影と思います。
↓煙の記憶のURL
https://umimosuki623.blog.fc2.com/
こうしてみると、意外と山の中の湖という感じがしていますね。
ダム管理所脇の駐車場に車を止めて、思いっきりおいしい空気をすい、三弦橋を眺めるのが、帰郷の際の、一種のルーティンみたいなものだったと思います。
今の景色はどうなっているのか。
貴重な風景だったですね。
写真の更新が増えてきたので、ちょっとレイアウトを弄ってみました。
使い勝手はどうだろうか、いつものことながら、使いながら様子を見てみようと思います。
『最新の記事』という項目が表示されるようになりました。
この2つの項目は、どのページをみても、ついてきます。これ、仕様です笑。
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それに伴い、これまで表示していた『更新された投稿』は、表示しない設定にしました。
最近の更新はほぼ日に2回です。
朝と夕方。
新規に掲載された記事は、Topページに表示されていますが、最近、多くなっている写真の変更による更新記事は、表示されません。
更新情報はFacebookグループとTwitterのタイムラインから見ることができます。
それと、『更新された投稿』というリンクに表示されています。
トップページには、新規に掲載された情報しか掲載されないため、更新記事は出てきません。
上記、タイムラインから入るか、「更新された投稿」からお入り下さい。
2014年3月4日からの夕張シューパロダムの試験湛水から何日目かに夕張シューパロダムの天端から撮った大夕張ダムの写真です。
右側に三弦橋に続くトンネルが見えています。
初めは何の写真かと思いました。
当時の大夕張の光景は全く目にしなかったので初めて見ました。
ありがとうございます。
ダムがダムに沈む絵はなんといっていいのか分かりません。
複雑です。
トンネルもはっきりと見えていますね。
もとにした白黒写真と一緒に、色付写真を掲載しています。
色付け写真は、自分の記憶や感覚をもとにした、自分のイメージの世界で遊んでいます。
とうぜんですが、現実を写したカラー写真ではありません。念のため・・・。
古写真の色付けならぬ、昭和の写真の色付け写真ということになります。
色付けも、やりやすいのは、人物中心にうつっているものがやりやすい。
たくさん映り込んでいるのはやっぱり時間がかかります。
『2丁目3番地』の写真も、これまでAIで色付したものも、随時、手作業で色付けしたものに更新していきたいと思います。ただ、一日数枚のペースなので、時間は相当かかりそうです。
Masaさま
ブログ「煙の記憶」管理人の海も好きでございます。
おもしろいネガを見つけたのでUPしました。昭和49年6月頃の撮影と思います。
大夕張へ向けた汽車に乗って、南大夕張を出発した車窓へ最初に飛び込む風景でしょか?
勿論、この写真は列車からでは無く、自転車で帰る途中に道路端から撮ったものと思います。
実際に列車から見えるのかは覚えてませんけど(笑)
ダムの右端にあるトンネルは三弦橋へ行くトンネルだったのではないかな?
その上の林道は青葉町から行けたハズで、林道奥の川の上流では大物の魚が釣れたと思うのですが・・・
写真を見て思い出した気もしましたが、かなり記憶違いがあるかもしれません。
↓煙の記憶のURL
https://umimosuki623.blog.fc2.com/
面白いですね。
上空から確かめてみたくて、国土地理院空中写真の平成12年版を拡大してみたら、三弦橋に続くトンネルと、林道(確か新得方面に向かうが現在は通行不能?)が続いています。
シューパロダム完成後は、どうなっているのでしょうね。
森林鉄道のトンネルと、林道の様子が分かりやすい大夕張ダムの写真、珍しかったです。
ありがとうございます。
↓国土地理院空中写真添付します。
【写真の色づけを楽しむ】
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PhotoShopを使いながら、写真の色づけに近頃ハマってますが、細部にまであらためて目が向き、何がうつっているかを確かめていく必要があるので、これが結構楽しい。
特に白黒写真で気付かなかった、背景に映り込んでいる人や、モノたちを見つけた時には、あらためて色をつけることで命を吹き込むような喜び(大げさ!でも本当)があります。
Masaさま
ブログ「煙の記憶」管理人の海も好きでございます。
大夕張の住民の方ならば、一度は乗車した事があるのではないでしょうか?
閉山反対の白ペイントがあるので、昭和48年夏頃に清水沢駅での撮影だと思います。
清水沢駅前の商店街も見えて、まだまだ賑やかだったのだろうなぁ~と想像してしまいました。
車両の屋根には煙突も見え、きっとダルマストーブも設置されていたのでしょう。
客車の窓には学生の姿も見えますが、高校生がクラブ活動の帰りでしょうかね。
ネガの前後を見ると、自分もこの列車に乗車し明石町駅などで撮影しながら大夕張へ帰ったようです。
↓「煙の記憶」三菱大夕張鉄道関連URL。ご笑覧頂ければ幸いです。
https://umimosuki623.blog.fc2.com/blog-category-1.html
懐かしい、ホームが見えていますね。跨線橋からとった写真でしょうかね。
意外に清水沢のホームはひろかったんだなあ、と思います。
清水沢は、札幌方面に行くにしても、夕張本町方面に行くにしても、乗り換えの起点となる場所でした。
昭和40年以降、バスでの移動が本格化する前は、鉄道の記憶しかありません。
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昭和20年8月15日、真谷地からの墓参の帰り、たくさんの人で賑わう清水沢駅のホームで、天皇の終戦の詔勅を祖母と妹と聞いたという母の話をよく聞かされました。
往事は大勢の人々で賑わっていた駅でしたね。駅の大きさと何本も見える線路がそれを物語っています。
「煙の記憶」三菱大夕張鉄道。冬のさよなら列車から12月で、47年に、なるんですか。・・・半世紀近く前😲。
あれ、いままでのページは?どこいったと思われた方はいませんか。
実はわたしがそうです笑。
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投稿が50個越えると、新しいページが出来る仕様になっています。
前のページは投稿数50+コメント16ということになっています。
今日掲載した『雨の日の栄町アパート』もそうなんですが、『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)を製作していた10数年前、資料を預かりながら結局掲載しきれない資料等が沢山在ります。
技術的にも時間的にも、いろいろな理由で当時はできなかったのですが、こうして『2丁目3番地』として更新を再開した以上、資料を形にしていこうと思っています。
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『形にする』という意味で、(1丁目1番地)の住民登録の書込みを現在、整理しながら打ち込んでいます。
1998年からの書込みですが、『故郷への思い』は変わることなく、年月を経ても残っていくということを、読み返して見てもあらためて感じます。
20年も前の『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)の『熱気』を支えた原動力がなんであったか、隣近所、親戚、同窓生、同級生の関係もあらためて見えてきて、(1丁目1番地)を今さらながら、読み直すことで客観的に理解していけるような気がしています。