思い出の街角 三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃《カラー版》 白黒写真に色を付けると、立体感や臨場感が増し、当時の様子が生き生きと蘇ると言われ、昨日の新聞にも、どこだかの大学が、関東大震災の時の写真をAIと人の手による着色で、当時の記憶が生々しく蘇ったなどという記事が載っていた。 着色作業をしていて、色付けしたばかりに却って侘しさ寂しさを感じる写真があ… 続きを読む
思い出の街角 三菱大夕張炭砿病院 昭和49年頃 写真すぐ左手の大夕張炭山駅から一日に何度も石炭を運んで行き来していた鉄道は、すでに撤去されてない。 閉山翌年の頃だろうか。 炭砿病院前のかつての線路の周囲に伸びた雑草が、失われた活気の大きさを感じさせる。 右手正面玄関の上には、「三菱大夕張病院」の文字。 … 続きを読む
思い出の記 東高バイク通学 |Masami Kawauchi 昭和49年 明石町 夕張東高校 バイク欲しくて定時制行きました。 高校の坂を登り切って夕張岳をバックに撮影。 全日制の女子学生見えますね。 私達はバイク通学でした。 白黒写真に着色した画像 (2020年5月17日 記) (筆者紹介) 昭和29年6月生まれ三男として 南清水沢で生まれ、2歳… 続きを読む
学び舎の思い出 木造校舎取壊し 今から20年以上前、白黒写真でこの写真を鹿島小学校の郷土室で見たときは、木造校舎がないこの姿はけっこう衝撃的というかインパクトが強かった。 全盛期の新校舎と木造校舎が対になった姿を知る人にとっては違和感を感じた写真かも知れない。 鹿島小学校の沿革を辿ると、昭和3年の開校以来、幾度も校舎… 続きを読む
タイムスリップ 昭和49年 コークス場・発電所あと 炭山駅横から北側と,官行と呼ばれた地域。過去の世界を行きつ戻りつ。 『ふるさと大夕張』(1丁目1番地)では、「閉山のあとに」と題して掲載した写真。 昭和48年閉山の後,昭和49年各関連施設の取り壊しがおこなわれた。 「平成10年 発電所からポンプ場へ」の昭和40年発電所と同じ場… 続きを読む
思い出の街角 緑町浴場 昭和49年 白黒写真に着色した画像 『鹿島小学校から歩道橋』に掲載した写真の一部分 浴場部分を切り抜き ここの2階に写真館があって、お風呂の入口に宣伝のために、写真館で撮った人の写真が飾ってあった。 ある時、初恋の人の写真が飾ってあって、夕方お風呂へ行くたびに眺めていた。 甘酸っぱい思… 続きを読む
思い出の街角 鹿島小学校校門から歩道橋 『食憶 その9 歩道橋の午後3時』を書いた長谷川さんや、『歩道橋』で、思いを書いた成松さんは、完成当時鹿島小学校児童で渡り初めをしたという。昭和44年(1969年)のことと思われる。私はすでに小学校を卒業していた。 長谷川さんは、『おやつタイムを過ごした特等席』、成松さんにとっては、『都会… 続きを読む
思い出の街角 歩道橋下から駅前方面 左手の火の見櫓の手前に歩道橋の下の部分が影になって見えている。右手には、歩道橋の階段と、そこに幕を張ろうとしているような、作業員の姿が見える。そして、右の手前の建物の上に掲げられていた『拓銀』の大きな看板もすでにない。拓銀は、昭和45年に撤退してしまった。 歩道橋の下の歩道にたって、正面に見… 続きを読む
昭和 1974年(昭和49年) 1月 イサオ製作所大夕張工場操業。(礦業所跡) 21日,鹿島中完全給食開始。2月 園芸センター設立。3月 単板加工会社大夕張ユニオン開業。(弥生町)4月 鹿島小,7学級児童数261名。 鹿島東小,6学級児童数110名。 鹿島中,7学級216名。 消防南部分遣所を出張所に改組。職員4名配置。菊水分遣所… 続きを読む
パノラマ 大夕張秋暮色 昭和49年(1974年)頃 大夕張パノラマ 富士見町方面栄町方面代々木町方面緑町弥生町方面岳富町・千年町方面 閉山後まだ間もない時期に横山幸一さんが撮影したパノラマ写真。 礦業所、弥生町や富士見町の4丁目~6丁目にあった住宅はすでに取り壊され空き地になっています。大夕張の主だった建物は、まだ残っ… 続きを読む
思い出の街角 昭和49年 千年町商店街 昭和49年頃、鹿島東小学校に向かって下りのゆるやかな勾配が続く道の両側に商店が建ち並ぶ。 昭和49年 千年町商店街 昭和43年住宅地図 千年町駅周辺から 通学路と千年町【飯田雅人】昭和49年秋の千年町の様子です。閉山後1年経った大夕張。後ろの夕張岳が早い冬の訪れを告げています。左手の千年町郵便局の前… 続きを読む