19886

食 憶|長谷川潤一  

S33年大夕張生まれ。彼の大夕張での記憶は他を圧倒する。


■エピソード1
■その2 食堂のお話
■その3 「へ」の字
■その4 小学校の給食
■その5 木箱の中身
■番外編 「CM」
■その6 三尺鯉
■その7 住環境と食生活
■その8 お上品な御味
■その9 歩道橋の3時
■その10 しゃっこい水
■その11  お湯
■その12  川原の鍋
■食憶減退・風邪の味


エピソード1

先日、ちょっと息子の夏休みに同調して、家族で釧路方面に行ってきました。
和商市場で鮭やイクラなどを買い込み、帰りの車の中で筋子にまつわる話しをしました。

それは、採炭で先山をやっていた父のお弁当のおかずのことです。
父が現場に持っていく弁当のおかずの定番に筋子がありました。毎月14日の会計の日になると詰所に組合員証と判子を持っていき、給料と明細を持ち帰った母はすぐ筋子を一箱買います。白木でB4ぐらいの大きさで、緑色の油紙状のもので内張りしてあり、結晶化した塩が箱の隙間からギザギザと溢れ出ていて、釘を抜いて開けると筋子の油と濃い塩の匂いとが、強烈なえぐみと甘いくどさの固まりとなって、その箱の中にギッチリと詰まった深い赤味から圧してきました。

父に聞くと、坑内はかなり暑く汗まみれで働くとのこと、塩分補給もかねて食もすすむしょっぱいおかずがいるとのことでした。アルミのドカ弁に大切りの筋子、ぎゅうぎゅう詰めの白飯、空いたQPマヨネーズの大きいチューブに水を入れて冷蔵庫で凍らせてお茶代わり、食事休みはみんなの手前15分から20分ぐらい、暗闇の現場での食事のためにヘッドランプのもとでも判りやすくキラキラと光る大きなフォークを使い、早飯は美徳という根っからの労働者であった父の弁当を思い出しました。

皆さんのとこはどんな「おかず」がメインでしたでしょうか?

(1999年08月02日)


その2 食堂のお話

一回目の投稿からだいぶ間が延びました、のびついでの話でラーメン話を。
当然のこと、池田屋さんは幅広いメニューでメジャーでした。思い出すのは、薄口色のスープのラーメン、ゆで卵などを抜いた「かけラーメン」、値段を抑えた「学生ラーメン」。

そして永遠に忘れられない味なのが、たこ頭型の銅板焼き饅頭「ぱんじゅう」です。一個5円でした!が、後に7円になって10円玉で2個食べられなくなりショックでした・・・。ちょっと下がったあいばさんは、少し辛目のカレーやカツ類などが美味しかったと憶えていますが、育ち盛りで何でも美味しかったです?。それとやはり5円10円売りのアイスキャンディ類が忘れられない味です、今年のように暑いとなおさら思い出します。

が、しかし、後発ながら私目にとって非常なインパクトをばもって現れたのが、だるま屋さんでありました。濃い口辛目の「みそラーメン」の登場です!! スープひと口でホカッときて、麺は硬めで濃い黄色、ごま風味の油が膜になり、深めのドンブリで「はーい熱いですよー」とテーブルに置かれたラーメンは、ほんとにアツアツ。フーフーさます甘口猫舌の子供なんんかは来るんじゃねーと言っているようでした。口んなかの皮が剥けるくらいの勢いで食べるという、狭い店内で寄り添うように食べる「大人の味のラーメン」でした。

暑さも終わり?ラーメンの季節に入ってきましたようで、主観100%の食憶でした。

若菜に「ぱんじゅう」屋さんがあるんだけど、最近どなたか、お口に召されましたでしょうか?・・・

(1999年09月12日)


その3 「へ」の字

初雪、初氷、夕張岳にも白い雪が・・という時期になると思い出すものは何か?

そうです、漬け物です!紅葉が進むとあちこちの長屋の壁や洗濯物の物干し竿にずらーっと掛かっていたダイコンです。縄で一本ずつ丁寧に縛られて長屋の間にユラユラ、ブーラブラと山間の早い西日の中で揺れていました。それぞれの家の味で干し具合が違っていて、「へ」の字干しは後からプリプリの食感で飯時の大盛りおかず沢庵に、カタカナの「へ」の字干しは皺が入った歯触りの良いオールラウンド。「の」の字干しまでくると強靱な繊維感の旨味オンリーで焼酎にベストの酒の肴「しないおごっこ」にと。

その他にも丸ダイコンやカブ、キャベツに白菜、ナスにウリ、真っ赤な南蛮、糠漬けに粕漬け、鰊漬けに鉞漬けなどなど思い出しますねー。

人工甘味料なんのその!サッカリンに黄色6号、砂糖まぶして味の素!
お茶請けなのに丼大盛りでしたねー、ご近所同士でばくって食べたりしました。

代々木アパートだったもんで、北向きの階段の踊り場は絶好の漬け物置き場でした。発酵した漬け物の臭いがプーンと溜まり、シバレがきつくなると漬け物石で氷を割って漬け物出しをしましたよね。シャーベット入り状態のタクアンなどやシャリシャリの汁ごとの鰊漬けなど、煙突まで真っ赤に焚いたストーブのそばで
冷たいやら熱いやら、ボリボリ、ガリガリ食べませんでしたか?・・・

(1999年10月21日)


その4 小学校の給食

斎藤さんのところで小学校の解体の写真は、みんなショックだったっという話しになり、鼓笛隊などの思い出話をしました。小学校にちなみ、給食の話しなどを。

ちょうど私どもが入学の折りに給食は始まりました。

一年生から給食を食べたというのは私どもからということらしいです。当然今と違って自校式ですからして2時間目の終わりぐらいから、ホワホワと廊下などに本日の献立(小さな黒板に書いてあった)のいい匂いが階段づたいに漂ってきたものです。

よく憶えているのはカレーシチュー、五目ラーメン、アサリシチュー(クラムチャウダーとは言わない)などです。それとコッペパン、たまーに黒コッペや角食2枚、きちんと金・銀紙に包まれた雪印バターや六甲マーガリン、ソントンや耳輪印の小さいパック詰めのジャムやスプレッド類、さくらのボール頭をねじ切って出すチューブ入りの蜂蜜など。

牛乳も最初は180の瓶でしたが途中でテトラパックになり、さらに栄養アップということで青帯の200の瓶になりました。冬になるとストーブの上の大きな蒸発桶にぎっしりと並べて入れてホットミルクにしましたね。これもたまーーに、コーヒー牛乳やフルーツ牛乳などが出ました。牛乳の蓋で遊んだりしましたね。蓋に書いてある森永恵庭工場というのはどこなんだろうと、ずーっと思っていたら、今現在恵庭に住んでいるですね、これがまた、食べ物の因縁は怖いですねー?

天候や冬など道路事情が悪くなって森永のトラックが来れなくなると、クラスに二つでっかいポットでココア風味のミルクが出ました。雛あられや柏餅、ショートケーキ、紅白饅頭なども出ました。出るといえばコッペパンの北沢食品さんは今も清水沢の道路沿いに看板が出ていますね。好き嫌いのある子はいませんか?きれいに食べないとだめですよ!いつもおかわりするとボクのように、こーんな大きな子になれますよ! わたくし現在91㌔です、はい。

鹿島小学校と給食室は永遠に不滅です!! なんか寂寥感がないなー・・・
斎藤さん、無事出所の際には腰に手を当てて、一緒に牛乳で乾杯しましょ!

(1999年11月21日)


その5 木箱の中身

大夕張の暮れは、すっぽりと雪の冬でした。この時期ならではな物をちょっこといきたいと思います。まず「リンゴ」、幌掛けのチェーンを撒いた小型トラックに拡声器がちょこんと載っかっていて、青森から来たさという眼鏡のおじさんがお国訛りで売って歩いてました。あの長方形の板作りのリンゴ箱は、まだ産地で
は見ますね。昔はどこの家にも一つや二つは物置にあり何か入れて使ってませんでした?横面の正方形の板面のとこには、おおざっぱな型塗りでリンゴの種類がプリントされていて「国光」「紅玉」「印度」「ゴールデン」「スターキング」などがありました。籾殻の中にリンゴが埋まっていて、まるで宝探しの気分で赤
いリンゴを掘り当てました。玉数が少なくなるとチクチクするばっかりの籾殻の中を、手探りでリンゴを掘り出すのは、ちょっと大変でした。そして「みかん」、木箱にキッチリと詰め込んで入っていて、釘抜きなどで板をめっくて開けました。

油紙やセロハン紙を捲ると、「特選○○高級ミカン」とかなんとか書いた産地を誇る金ピカの短冊紙などが入っていました。何個か見事に黴が生えていて緑の粉吹き状態だったりしてましたね。そこから傷を付けずに強引に出したミカンは、なんと美しい四角形のミカン!珍味?でしたねー。そのあと、リンゴやミカンの
空き箱は子供たちのパッチの台、冬休みの工作用、古いスキー板を付けて橇遊びなどなどにと使われました。

大夕張からの引っ越しの時に使って、実家の物置でひょっとしたらまだ、「国光」の箱使っていませんか?

(1999年12月17日)


番外編 「CM」

CMといえば大夕張鉄道の車内でロケをした、三菱グループのCMを思い出します。

HBCでやっていた朝のワイド番組でながしていたもので、外人さんが客車に乗ってきて他のお客さんと何か話しをしようとしたところ、みんな驚きとまどって顔をそむけるように避けてしまう。外人さんは気持ちも言葉も通じずに寂しく困り果てている。そこに、「ひとりとひとりの やさしいきもち どうしてひとつに つながらないの・・」というような歌詞が流れてきて、中高校生?が辞書片手に何とか話し始めようとしだす。どこかの青年が、身振り手振りのアクションで何とか意志を通じようとする。ストーブのそばで、どっかの親父さんが笑顔を見せる。行商?らしきおばちゃんが、包みを開けて大きな「おにぎり」をさしだす。外人さん大喜び!みんな笑顔で和気あいあい、「・・にんげんがだいすきさ にんげんがだいすきさ みんなーがだいすきさーー」良かった良かったねー、というような?歌で盛り上がって終わるというCMでした。画面に笑顔が出たしたころあいから、グループ会社や系列会社名が次から次とロールアップして流れ出し、1分ぐらいあったような長いCMだったと憶えています。いやしい私目はやはり、「大きなおにぎり」で食憶に引っかかっているんでしょうね・・

(1999年12月23日)


その6 三尺鯉

川の大物話を食憶にからめましてひとつ・・、緑町にいた親戚のおじさんがなかなかの釣り名人でして、五月のダム増水の時期に三尺モノの鯉を釣ってきました。

一メートル以上の大物を釣るとシューパロ湖の主みたいな紹介で、写真付きで新聞に載ったものですね。さっそく長屋に野次馬根性で見に行くと大きな金ダライに黒光りした見事な巨鯉が背中を出して入ってました。写真を撮ったり、魚拓をとったりと、噂を聞いた太公望たちが集まり、酒が入って盛り上がっていたとき、突然、その場を切り裂く恐怖の悲鳴!! なんと、たらいの鯉の背中ににチョンチョンとちょっかいをかけてた猫の前足に鯉がバックリと食らいついたんです!

水は飛び散り、猫と鯉は絶叫と共にのたうち回り、他の猫は興奮してもう大騒ぎ。
釣り上げるのに一時間以上、自転車で帰ってくるのにまた一時間ぐらい、写真だ魚拓だと、お披露目酒盛りはじめて更に三時間ぐらいは悠に経ってると思うんですけども、恐るべし巨鯉の生命力!みんな大騒ぎでション便ちびってガタガタ震えている猫の足を外しました。

その後、その尊大な生命力にあやかろうというで生で一口、みそ煮で一口、いただきました。小骨というか身のしまりというか、まだ子供だったのであまり美味しいとは思わず、シャリシャリという食感しか憶えていません。大きな透けた黄金色の、丈夫な鱗を夕日にかざして見たのを憶えています。山口さん、シューパロ湖には、まだいますよ、主が・・・。

(2000年03月17日)


その7 住環境と食生活

山菜採り、行かれました? 家族での行楽行事、それとも秘密の場所で独り占め採りかな? ちょっとした郊外の道路端っで袋など下げて何か採ってる人たちを見かけますよね、排気ガスで煤けたモノなんか良く採る気になるなーと嫌な気分になります。

すこぶるきれいな環境の良い大夕張では美味しい山菜が採れましたねーって、周り全部山ン中だから当たり前か・・フキ、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、タラの芽、ギョウジャニンニク、笹タケなどな。ストーブ焚いてフキ茹でて、あちこち青臭い湯気立てて、堅い筋皮剥きましたねー!遊びに行った機関庫でも機関車から蒸気引いて瞬間蒸し茹でしてました。

代々木アパートの階段はフキの匂いで咽せかえり、我が家の食卓にもフキの煮込みが載りました。夕食に作りたての煮物、この青臭いほろ苦さが「ああ、春なんだなー」と、雪が溶けたことを実感させてくれました。次の朝、一晩置いて醤油味が馴染んだところで「うん、春だなあ」、昼に弁当開けて潰れたフキに「春になったのはよく解ったよ」と、そして夕食にカレー皿に大盛りのフキ登場・・。まだです、出ます、そして朝、俺「またフキかい!」母「今日は違うよ」姉「油揚げが入ってるよー」、そして昼の弁当にも・・。俺「晩飯はチガウよね・・」母「違うよ」姉「コンニャクが入ってるよー」、そして続くんです、「竹輪入れたよー」、「ヒジキだよー」、仕舞いにゃ、「○○さんちのだよ」、「××さんとこのだよ」ときたもんだ・・

私は食べることは大概好きですが、山菜は嫌いです、一生食べなくても良いです。

(2000年06月09日)


その8 お上品な御味

交流会も楽しく過ごし、メロン城にみんなで寄り道。いろんなお土産がありますねー、ワイン、焼酎の酒類、羊羹、キャンディー、ケーキ類、そのものずばりの石炭まんじゅう、地元に関するお土産がいっぱいです。この時期の地元の味として思い出すのは、やっぱりメロンですねー、ヒロさんとメロンの食べ方についての確認をしました。

大夕張を出て驚いたのは、メロンを食べるときに8分の1カットで召し上がるということです! 4分の1だと食べる、2分1だと喰う、という表現になります(ホントか?おい)。

正しい夕張人としての食べ方は、当時、普及し始めた冷蔵庫に、ゴロンゴロンと冷やして置いて、食後に出して、おかずを食べた後の皿にパカッと真っ二つ!にしたメロンを乗せ、カレーなどを食べるときの大型スプーンでガボッと種を掻き出し、ブスッと刺してグルリンコとメロンを掬って食べました。そうでしょう皆さん?流通とブランドが確立していなかった頃は大胆に食べてましたよねー。個撰の茶色箱のメロンなど、お盆の最後の時期になると安売りでしたよねー、板垣さん一枚で一箱買えましたもね。

朝に採れたてのメロンを、いちかばちか腐る前に無事届くようにと、木箱を縄でグルグル巻きにして、鉄道荷物で大夕張駅から東京方面に出している方もいました。そんな時代ですもんねー。冷蔵庫と高速流通と品質向上の夕張農協に感謝!

皆様のおかげで美味しいメロンがキチンと食べられる時代になりました、合掌。
それにしても私目もヒロ様も、夕張御出身の皆様方も、お下品な食し方かしら?

(2000年08月16日)


その9 歩道橋の3時

やっと暇ができたので大夕張に行って来ました。ちょっと来ないとなんか寒々と広い感じがするなー、紅葉の季節も終わりだしなー・・ちょっとまてよ、おい!

何か変だと思ったら、あの歩道橋が無ーいー!。鹿小時代、みんなで渡り初めをした歩道橋。冬の朝、誰も歩いた跡がない階段に一番乗りの長靴の跡をつけ喜んでいた歩道橋。板で塞がれ、誰も渡らなくなったけど、うちの息子と尻滑りをして遊んだ雪の歩道橋。とうとうお亡くなりになりました。じつは、あの歩道橋は僕のオヤツタイムの特等席でした。くじ屋でいろんな駄菓子を仕入れては、あの歩道橋の一目高い所で、下々の暮らしぶりを見ながら食べる。という一味違った物理的な優越感というか生活的な快感というか、それは美味しゅうございました。

マンボ、ニッキ、ゲソ珍味、宝引きイチゴ飴、黒糖パン、コリスガム、マル川、ラムネ、味噌パン、的飴、えびせん、水飴せんべい、ハッカ、野球チョコ・・・
これしか思い出せませんが、皆さんも忘れられない味のもの何かあるでしょう?

私、これを歩道橋の上でオヤツタイムしてました。汽車の屋根が見え、足の下をバスや車が走り抜け、お風呂に行くお年寄り達や買い物篭を下げたお母さんたち、消防のおじさん達のホース巻き、緑町の長屋からはポヤポヤと煙突の煙、とても良い気分でした。最後の渡り初め、ならぬ渡り終え?をして、その特等席で息子とオヤツタイムやりたかったです。大夕張の最後の主、歩道橋さんに、合掌。

(2000年10月26日)


その10 しゃっこい水

長いテーブルにズラーッと並び、長屋話などに盛り上がりましたね、交流会!
ご新規の方の参加もあって、さらに「池田屋」暖簾の登場!! ううっ、5円の「ぱんじゅう」の温もりが(;_;)・・。で、こちら恵庭は雪がかなり降りました。

もう、かまくらができそうなくらいです。そこで、雪の中の水話しを強引に・・
長屋住まいの経験のある方はご存知でしょうが、水道は二棟で共同でしたよね。
各家庭の流し場から長ーーいホースを軒裏に這わせて、水道小屋まで引っ張って水瓶に溜めて使っていました。家庭ではとても不便ですが、子供にとっては便利なありがたい水道小屋でした。遊んでいて喉が渇いたら「水タイム!」ちょっと一飲みってね。指栓して噴射攻撃、霧状にして虹作り、泥んこダム遊び、絶好の
水遊び場状態で、よく怒られました(すんません)。今の時期になると凍結しないように水は出しっ放しで、シバレがきつくなるにつれ見事な氷のアート?が、あちこちの水道小屋で繰り広げられました。キラキラと光る朝日の中、ツララで作ったかまくら状態の水道小屋からは湯気ボウボウ、暖っかそうな錯覚の世界。

乾いた冬の空気の中で蛇口から流し飲む、程良くしゃっこくて美味しい水の味。
誰もが美味いと言う「大夕張の水」の味、自然の山の甘味が入ってたから?雪解け水だったから? いいや、それだけじゃないはず。ほんとうは、そこの炭鉱街で暮らしていた優しい人たちの想い出も、いっぱい入ってるから・・かな?

(2000年12月7日)


その11 お湯

冬の味の大元だと思うんですが、湯沸かしのお湯のことなんです。ほとんどの家では当然石炭ストーブでしたよね、鋳物のフジキ式とか鉄板のやつとかいろいろ。

ひょうたん型やトラックオーバル型、後部にいくと煙突が出るだけの尻すぼみ型、石炭をまとめて投入する山高型、前からジュウノでくべるのとか上部の丸フタをデレキで引っ掛けて開け、さらに何重かのドーナツ状のフタを上げてオキを突っついたのとか。そして、湯沸かし器です。銅、真鍮、ステンレス製などで、これ用のスタンドまでありましたよね。上から見た断面が満月から六日ぐらい?経ったような欠けたお月様のようになっていて、その欠けたところがストーブの後部側面に大体ピッタリくるような作りで、針金でグルッと巻いてガッチリつけていましたね。いっつもストーブをガンガン焚いて、湯沸かし器がグラグラ煮えて、お茶でもご飯支度でも即席麺でも、掃除の雑巾掛けでも何にでも使ってました。

実際のお湯の味というよりも、とくに冬場はそこの家のニオイというか住んでる人の風味というかカラーがちょっぴり解ったものでした。それは窓に張った防寒対策のビニールが、すきま風の流れを止めていたせいです。よそんちに入ると、湯沸かしからの湯気加湿にのって、たばこの臭い、漬け物の臭い、線香の臭い、
なんか油っぽい臭い、防虫剤の臭い、食事時の臭いなどそこの家に入った瞬間、モワモワーッと顔に当たりました。そこにはいろんな人たちのいろんな生活のニオイがありました。

うちはきっと、かなり焼酎臭かったでしょう、ははは。

(2001年3月19日)


その12 川原の鍋

息子が楽しみにしていた樽前登山が都合で中止、かわりに何かしようかということになり、先週、宿泊研修でカマド係りをバッチリやりこなしたという息子の腕前を確かめるため、思い出したのが「炊事遠足」。炭火の焼き肉でもなく、海の幸ありのバーベQでもなく、もちろんおしゃれなアウトドアでもなくて、米、味噌、鍋釜背負っての、そうです、あの「炊事遠足」です。陽の当たる中ほこりの舞い上がる道を官行や白金へと、学年別民族大移動のように歩きましたね。班分けをしてメニューを決めるんですが、「カレーライス」「ブタ汁」「ジンギスカン」、この三大メニューからの呪縛は逃れられませんでしたね。

購買会が安い、生協はまけてくれると買い出しに行き、鍋は×君持つならば、具は○さん、スイカは重いから男子が交替で行くとか、楽しかったです、はい。

今日は、朝からバタバタとカレーライス遠足用の買い出しから始まりました。
まず、カレー用牛肉(ブタでしたよね当然)、定番のバーモントカレー甘口、福神漬け、家になかったニンジン、ボトル飲料数本、必須アイテムのアルミ鍋24㌢級二つ。その他持ち物は、米3合、水10㍑、タマネギ3個、イモ6個、食器、マッチ(着火ガス系は邪道!)、片手ノコ(流木薪切り用)などです。

舗装された道を滑らかに官行までドライブ、イタドリやササに擦られながら、官行の川原へと降り立ちました。ちょうど昼時、そこそこの天気、ウグイスが鳴き交い、虻さんブンブン、冷たいシューパロ川。息子と薪拾い、ノコ講座、カマド囲ってマッチで火起こし。ご飯鍋に石のせて、野菜の煮え具合を見ながらの火力調節、その合間の川遊び、単純にワクワクしてカレーの出来上がり。

けど、鍋釜背負って、暑い道なりをなんだかんだと、みんなと歩いた時のほうが楽しかった。今はない、学校行事の楽しい思い出ですねー、ほんとに。

(2001年7月15日)


食憶減退・風邪の味

皆さま方、インフルなど召してはいませんでしょうか。この時期になると思い出す「風邪」の味?私はいろいろあります。蜂蜜、水飴、麦芽糖、サクマのドロップ、不二家ポップキャンディー、喉へのいたわりにレロレロと。砂糖つき梅漬け、のりたま、江戸むらさき、お粥を少しでも食べるためにと。おろし金のすりリンゴ、ミカンの缶詰、高熱などダメージが強いときの高級気付け用に桃缶、パイン缶。

今でもいろんな薬のお世話になっていますが、忘れられない薬の味?に「アスピリン」があります。家に常備していたのは、吉井さんで買ってきたもので10㎝ぐらいの濃い黄色の紙筒に入ったものでした。表面に細かい字で何やらびっしりと書かれ、見てるだけで効いてきた気分になる・・。

明治の「カルミン」をひとまわり小さくして分厚くした大きさ、子どもが服用時には半分に割れるように谷線が入ってました。とっても苦くてなんかカビ臭く、扁桃腺が腫れた咽で飲む込むにはしんどかったけど、スーパーな薬でした。

扁桃腺の腫れがひどくなるとすぐ、病院のお世話になりました。子どもの頃から見た目も大柄で、内科や耳鼻科と病院は慣れて平気だったせいか、すぐに太い静注、薬もカッキリと紙で折り込んである、舌がつっぱるようなすんごく!

苦い粉薬でした。ここに、不謹慎と言われるかも知れませんが、子どもの頃にあこがれた幻の味があります。それは、あの小さな窓口から手渡されていた、子供用の「水薬」です!今で言うところのシロップ薬です。手のひらぐらいのサイズからその半分ぐらいの小瓶まで何種類かあり、いかにも職人の手作りというかんじで透明エンボス加工の出っ張った目盛り付きガラス瓶。コルクの栓がしてあって、ちょっと泡立っていた葡萄色の中身。小さな荷札みたいなのがついており、名前と一回に飲む量が書いてあったと思います。よっぽど、春日町のいとこがもらったやつを舐めてやろうと思ったぐらい。そこまでホイドというよりは「水薬」のほうが子供用だから、甘ーく、とっても優しーく、気持ち良ーく、効きが良いんだなー、と子供心に思ったからです。

手術室の前を通り病棟へ行く廊下の階段を降りた左角、病院食のみそ汁の匂いが漂う売店で飲んだフルーツ牛乳も風邪の味のひとつです。

皆さん方の子どもの頃は風邪の時の定番の味は何でした? 今もきっと伝授してるでしょ、自分も家族にも!。

勝手に番号付けて連載形式にしていましたが、ネタ切れということでこれまた勝手にお終いにします。飯田さん、取りまとめのお手数をお掛けしてどうもすいませんでした。少しでも思い出して笑って下さった方、ありがとうでした!
(2002年2月14日)


3件のコメント

  • 「筋子のお弁当の思い出」

    小学生か、中学生の頃のことか、はっきりしませんが、学校の給食にお弁当をもっていっていた頃のことです。
    ある日、友達のお弁当に入っていた筋子。鮮やかな赤い色に、つやのある大きなつぶつぶが、とってもおいしそうに見えました。
    それまで我が家では筋子を食べたことがなかったので、羨ましく思った自分は家に帰り、母親にさっそく「お弁当のおかずに入れて」とおねだりしました。

    母は、「値もはるし、そもそもあんたの口にあうのかい」、といいながらも、数日後、お弁当のおかずに入れてくれました。

    お弁当に入れてもらった筋子。嬉しくて給食の時間までとても待ち遠しく感じました。
    給食時間が来て、さっそく食べてみると、思っていたより、「しょっぱく」「脂っこい」味で、自分が考えていた味と違うような気がしました。

    家に帰って母に「おいしかったかい」と聞かれ、「うーん」となんともいえない顔をした自分に、母はやっぱりね、というような微笑みを浮かべながら、「そうかい」と一言言っただけでした。

    今は、おいしくいただいている筋子の、子供の口にはちょっと早すぎた思い出でした。

    • 飯田母上様の優しさが私の心にも沁みました。
      筋子のお弁当、確かに大人の味かもしれません。

  • のっけから弁当のおかずに筋子!!1丁目1番地に掲載された当時鮮烈でした。
    そして母から「生もの・漬物・匂いがきつい物ダメ」と教わってきた私の弁当に、おかずバリエーションが増えました。

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