昭和49年 千年町商店街
昭和49年頃、鹿島東小学校に向かって下りのゆるやかな勾配が続く道の両側に商店が建ち並ぶ。
通学路と千年町【飯田雅人】
昭和49年秋の千年町の様子です。
閉山後1年経った大夕張。後ろの夕張岳が早い冬の訪れを告げています。左手の千年町郵便局の前に中学生が数人歩いています。
私も中学生の頃には,通学の道として志村商店から宝町をとおっていくコースと,千年町のバス通りに沿っていくコースと二つありました。飲食店も多くちょっぴり刺激的でにぎやかなこの通りの雰囲気を中学生の私は好んでいました。
千年町の商店街 【市橋 勝】1998年03月08日(日)15時59分40秒
私が住んでいた千年町は、東西に伸びたバス通りに沿って結構多くの店があった
ように思います。まず、千年町郵便局の近くにあった織田商店は酒屋さんでしたが、その長男が私
の親友だったのでよく遊びに行きました。大きな家だったんですよね、私から見れ
ば。当時、二階にいくつもの部屋のある家なんて、とても裕福だったと思います。
道を東小学校のほうに下っていくと、双葉食堂とか言う小さな食堂が左手にあり、
宝町のほうに行く道の角には文房具屋兼呉服屋(なんていう名前だったか忘れまし
た)がありました。三菱のユニボールとかいうオマケのまん丸消しゴムがほしくて、鉛筆を一ダース母に買ってもらった記憶があります。
また、右手の千年町消防署の道を挟んで向かい側辺りには高田商店という駄菓子屋がありました。そこのお爺さんがとっても優しい人で、あんまり「商売気」のない人だったんですよね。そこのプラモデルが結構充実していて、正月や誕生日の時など、よく利用しました。
更に下ると、確か喜多野屋とかいう食堂が左手にあり、何軒か食堂が並んでいた
ように思います。喜多野屋の醤油ラーメンが美味しかったんですよね。海苔、卵焼
き、焼豚、なるとなんかが入っていて、盛りだくさんでした。あんなラーメン、今
時見かけません。もう少し下ると、以前話題になった所商店があり、道を挟んで左の道の向こうに
は児童公園があり、所商店の近くを右に折れると銭湯がありました。(なんていう
名前だったかなぁ?)児童公園では、殆ど毎日のようにミニ野球を友人達としてました。確か、「三角
ベース」とかって言って、セカンド抜きのダイヤモンドなんですよね。公園も狭い
から、すぐフェンス越えのホームランが出るんです。そのため、よく近くの民家の
窓ガラスを割っては怒られていました。でも、東小学校のグランドまで行ってしな
いんですよね、あんまり。おそらく、その児童公園のロケーションが良かったから
だろうと思います。千年町だけでなく、宝町や錦町の子供達が集まるのにちょうど
いい場所にあったんです。それから、銭湯もよく利用しました。冬なんて、頭を洗って帰るときにしっかり
とバスタオルで巻いて帰らないと、髪の毛がカチンカチンになり、レゲエの歌手の
ようになるんですよね。バスタオルで頬っかむりをして帰る姿は、今考えるととて
も怪しいものがありますね。所商店からまっすぐ東小学校のほうに進むと、長屋などの民家が暫く続き、左手
に斎藤商店という八百屋がありました。そこから先は食料品を売っている店がもう
なかったので(常磐町まで行くしかなかったので)、私を含めた東小学校付近の住
人はよく利用させてもらった店のはずです。牛乳や食パン、豆腐や魚、それにお菓子だけでなく、ノートをはじめとした文房
具なんかも置いていて、文字通り八百屋さんでしたね。小さい頃、欲しい物を買い
掛け(ツケ)で買って、後からひどく両親に怒られた記憶があります。なんだか長々と書いてしまいましたが、これらの商店は子供の私にとっては大変
バラエティに富んだものとして映っており、それほど大きな町ではなかったと思う
のですが、歩いて行くととても距離が遠かったように感じたものです。歩いていて楽しくなる、とまでは行きませんでしたが、私達の身の丈に合ったとて
も身近な感じがする町として、今でも活き活きとその思い出が蘇ってきます。
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