昭和26年(1951年)鹿島東小学校 開校の頃
浜出栄子先生とは、自分が大夕張を出てから祖父の家で何度かお会いしたことがある。
叔母の結婚先の親戚筋になる。
その縁で、祖父の家には何度か遊びに来たことがあった。
すでに昭和も晩年の頃だったと思うが、その頃、自分も祖父の家で暮らしていたので、印象がある。
教師としての威厳の中に年少者への思いやりを感じさせる、凜とした佇まいのお人柄だった。
祖父も同じ頃、浜出先生と同じく鹿島小学校に勤務している。だから浜出先生と同僚でもあった。
浜出先生は開校した鹿島東小学校に移った614名の子どもたちとともに、鹿島小学校から移動した13名の教師のうちのひとりだった。
大夕張を語る時、昭和26年当時の職員室の様子がいつも話題に上っていた。
職員室が大人数であるうえ、二所帯で連絡をとるのがたいへんであったことや、校具類も机や椅子を子どもたちが背負って、鹿島小学校から東小学校に移動していったこと。
そんな思い出話を感慨深げに語り、酒のつまみにチビリチビリとやっていた祖父の姿を思い出す。
下の浜出先生の文章は、『大夕張年表』の中や、『昭和26年(1951年)鹿島東小学校』のページで既出だが、あらためて浜出先生の思い出とともに再掲載した。
当時をふり返って 濱出榮子
私は昭和24年の秋に鹿島小学校へ転勤してきました。
当時の鹿島は石炭産業の興隆期で、町は人口増で昼も夜も商店街には人があふれ、にぎやかな活気のある町でした。
小学校も児童数の増加でマンモス化した校舎は教室が足りないので、低学年は2部授業を行い、高学年は体育館を間仕切りした仮教室を使用している状態でした。
簡単な板じきりの壁で、天井があいているので、となりの教室の声や音がうるさくて、教師と子どもの対話が伝わらないため授業を進めていくことは大変だったようです。
でも11月になって、それまでの校舎の一部を占めていた中学生が、常盤町に新設された中学校の校舎に移っていきましたので、体育館の間仕切り教室は解消されたのです。
25年度に私は6年生の担任でしたが、松・竹・梅・櫻・菊・桃・藤・桐、とクラスが8クラスもありました。
当時の全校児童は2600名程でした。
全校朝会などはどのようにしていたのか思い出せません。
昭和26年に、このマンモス学級解消のため、鹿島にもう一つ小学校が建てられました。
東小学校と名称がつけられました。
千年町、常盤町、明石町が東小学校の校区となり、各学年2学級ずつ編成され、合計614名児童が6月に東小学校に移転しました。
私もその中の2年生の担任で、一緒に移りました。
ふたたび昭和30年には宝町、錦町、泉町が東小学校の校区に加えられ東小学校へ移りました。
鹿島小学校は2つに分かれていた職員室が、もとの一つにおさまり、2部授業も解消されていったのです。
(『鹿島小閉校記念協賛誌』より)