Masa

北海道夕張市鹿島1番地。昭和31年3月、大夕張生まれ。 昭和31年から、昭和46年まで、炭礦で繁栄する、自然豊かな街で幼少年期を過ごしました。中学校卒業、炭砿病院の薬剤師だった父が亡くなり、大夕張を離れました。昭和48年三菱大夕張炭礦が閉山になる2年前のことでした。 1996年に「ふるさと大夕張」を開設、運営。2019年12月より再起動しました。
桜ヶ丘開拓地 住宅地図  開拓・白金

桜ヶ丘開拓地 住宅地図 

 前回、『開拓地 住宅地図(桜ヶ丘・下夕張・旭ヶ丘)』のページで、山影さんの著作の中から、「下夕張4k地点」と『旭ヶ丘』開拓地の追想から住宅地図を掲載した。 「桜ヶ丘」については、後日掲載としたが、今回ページをあらためて、ここで紹介する。 「桜ヶ丘」については、以前、シューパロ塾での学習会の時の資料…
〘 透明人間現わる 〙は、大夕張劇場で上映されたか?| 高橋正朝 #94 続・大夕張つれづれ

〘 透明人間現わる 〙は、大夕張劇場で上映されたか?| 高橋正朝 #94

   〘 透明人間と蝿男 〙の映画の題と、大夕張劇場のポスターのことは、ハッキリ覚えていたものの、何か、他にも、透明人間の映画があったような気がして、検索欄に、透明人間とだけ入れてチェックしたら、洋画のショートカットメニューしかでてこない。        それで、〘 円谷英二、透明人間 〙と検索した…
二股ダム地点(大夕張ダム) 思い出の街角

二股ダム地点(大夕張ダム)

大夕張国営かんがい排水事業 記念史(1967.10.23)より 同書には、ダム地点として掲載させている。 大夕張ダム着工以前の二股(南部)より上流の写真、ダム工事に着手する昭和29年(1954年)前後の写真と思われる。   遠くに夕張岳 左手の崖に大夕張鉄道 右手の崖に桜ヶ岡の開拓農家が数軒見える。…
南部小学校の思い出 | 奥山道紀   思い出ばなし

南部小学校の思い出 | 奥山道紀  

 私は小学校三年生まで南部小学校に通いました。  青葉町の営林署の官舎から、森林鉄道の夕張川横断橋を渡り、貯木場、大夕張鉄道の営林署岐線を通り、矢板医院の前に出ました。  学校の下には南大夕張駅があり、機関車を見るのが楽しみでした。   今では学校も閉校になり、校舎の跡には、校歌の刻まれた記念碑があ…
昭和48年の街 その6 閉山を迎える街

昭和48年の街 その6

   昭和48年(1973年)の大夕張の街。    その3(富士見町の山の方の住宅地)から、ずうっと、その4(北栄町-官行の工場地帯)、その5(大夕張を中心にした駅前)と視線を巡らせて、足下には、神社の登り口でもある鹿島小学校のグラウンドが見える。    下の様子が手にとるようにわかる。  バックネ…
昭和47年(1972年) 南部地区航空写真 南部

昭和47年(1972年) 南部地区航空写真

昭和47年(1972年)の南部地区の航空写真。 市街地と大夕張ダム、シューパロ湖 昭和47年国土地理院空中写真   南部の現在の行政区域を含め南部、鹿島の過去の町名を含めて知ることができる↓ https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/01/012090190…
救急車の山口さん|愛知県安城市 H.K 随想

救急車の山口さん|愛知県安城市 H.K

 父の遺品に少しずつ目を通しては整理し、大夕張を偲んでおります。  自分が赤ん坊の頃、父が鑑札(ナンバープレート)の付いた自転車に乗せられている写真や、虫垂炎で炭鉱病院へ行く時は、正月の大吹雪の中を、父がソリに乗せて引っ張って行ってくれたのを思い出したりしていました。  当時は盲腸になっても、生きる…
昭和35年 遠幌駅 運んだ、石炭を人を

昭和35年 遠幌駅

昭和35年 遠くに、ホームと「えんほろ」の駅名標が見えている。 下記『山史』によると、 北炭(北海道炭礦汽船)が遠幌炭鉱を開発、昭和23年に送炭を開始した。 同年6月18日に、北炭が駅舎社宅を完成し、北炭から提供を受けた。 営林署、北夕炭鉱、北菱鹿島炭鉱の岐線があった。 白黒写真に着色した画像   …
春とどろんこ道  |  ziny 随想

春とどろんこ道  |  ziny

 春  さくら咲く  ふるさとはたしか  ぬかる道     私の記憶では、初めて詰襟(学生服)を着て、学生帽子をかぶって、今年80になるお袋が仕事を休んで、鹿島中学の入学式にいっしょに出かけてくれた。  昭和38年のときの今頃は、道がぬかるんでいて、つり橋(暁橋)を渡るために、千年町から降りる坂が、…
栄町1丁目の通り 思い出の街角

栄町1丁目の通り

 昭和32年11月に栄町アパートが完成し、入居が始まった。  外便所だった炭住も内便所になったという。  見えている栄町アパートは、こちらから、1丁目14番。13番、12番。  12番の隣は、・・・昭和40年代は、空き地だった。  ここでは、古い住宅が見える。  昭和36年の大夕張上空からみた『台地…
鹿島小学校グラウンド 写真

鹿島小学校グラウンド

2022年5月6日   何もない 林の風景・・・。 でもここは、旧鹿島小学校グラウンドの北東の角。 汽笛の代わりに小鳥のさえずりがきこえる。   『旧鹿島小学校跡地』にて…
何もなくなった故郷|石黒静治 随想

何もなくなった故郷|石黒静治

 私は昭和18年生まれ。  鹿島小から鹿島東小に三年生の時に転校し、常盤町5丁目6番地で過ごし、鹿島中学校を卒業するまで居ました。      それからは、ずーと関西にいまして、このたび45年ぶりにこの鹿島地区を訪ねましたが、なにもない故郷に愕然とし悲しく、寂しく、1日中、旧鹿島小跡に、座りこんでいま…
開拓から白銀橋 思い出の街角

開拓から白銀橋

昭和34年に建設された白銀橋。 この橋を渡って明石町から開拓へ向かうことから、開拓橋ともよばれていた。   雪どけの時期、残雪が多く残る畑の向こうに橋が見えて、その向こうまでの明石町の道路や、住宅が見通すことができる。 昭和30年中頃だろうか。 尚、白金地区が「開拓」から「鹿島白金」と地名変更になっ…
〘 透明人間と蝿男 〙のユーチューブのビデオ。|高橋正朝 #93 続・大夕張つれづれ

〘 透明人間と蝿男 〙のユーチューブのビデオ。|高橋正朝 #93

前々回、続・大夕張 # 91 〘 透明人間と蝿男 〙で、ショートカットメニューのことについて、以下のように言及しました。     この〘 透明人間と蠅男 〙は、ネットを探ると、予告編を見ることができます。 ただし、どういうわけか、著作権の関係か、ナレーションは英語である。      だが、このときは…
サトミ会館 思い出の街角

サトミ会館

   千年町のサトミ会館。  鹿島中学の頃、ある時期、暁橋を渡って、「サトミ会館」の横を通って登下校していた。      特に、午後の学校帰り、建物を覆う目隠しのように貼られた板の入り口から見える、暗い空間に「いったい何があるのかと』、純情な中学生は、横目を使っておそるおそるのぞきたい気持ちと、なん…
フランスギクと花占い(大夕張の花) 2丁目3番地

フランスギクと花占い(大夕張の花)

道端のフランスギク   草丈20cmから1mくらいで、道端でよく見る可憐な白い花。 寒い冬の北海道でも越冬し、野生化し繁殖力のある外来種。   いまでは、他地域から導入された種が在来種に大きな脅威を及ぼしている植物として、北海道ブルーリストにものってしまった。   子どもの頃は、たしかマーガレットと…
三献の儀 労働会館 記念の日

三献の儀 労働会館

 写真は、昭和31年10月に当時鹿島中学校で教員をしていた叔父と事務室で働いていた叔母の結婚式の時の様子。労働会館の一室で行なわれた三献(さんこん)の儀の様子。    仲人は、当時の鹿島中学校校長萱場武夫ご夫妻。萱場校長は、その後昭和34年から38年まで鹿島小学校校長を務めた。    三献の儀は、神…
開拓地 住宅地図(桜ヶ丘・下夕張・旭ヶ丘) 開拓・白金

開拓地 住宅地図(桜ヶ丘・下夕張・旭ヶ丘)

   昭和20年以降、食糧増産の風を受け、森林鉄道沿いに農地開拓のため、入植した人々がいた。  南部より北部には、「桜ヶ丘」「下夕張」「旭が丘」の3つの開拓地があった。  戦後、下夕張に入った高橋善兵衛さんの娘さんである山影静子さんが、書いた本には、当時一緒に入った人々やくらしの様子について書かれて…