流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8 流れのように

流れのように■銃後の私(2)■|長谷川安造 #8

 年がかわり、私は夕張市三菱大夕張礦業所のある大夕張尋常高等小学校に転勤した。  昭和13年の春の頃で、国内情勢、何処も同様な雰囲気で、この地は前任地に比べて、人口も多いだけに、応召兵士の数も多く、殆んど毎日の様に、大夕張駅ホームまで、高学年児童と共に見送ることとなった。  「勝ってくるぞと勇ましく…
平和祭り 街の行事

平和祭り

昭和30年、稚児祭りのひとこまでしょうか。平和まつりとかかれた行灯が見えていますが、当時、「平和まつり」と呼ばれた「まつり」があったかどうかは、覚えていません。詳細はわかりません。大夕張のお祭りといえば、私には6月の「山神祭」と7月の「稚児祭り」しか思い浮かびません。…
流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7 流れのように

流れのように■銃後の私(1)■|長谷川安造 #7

 昭和20年前までの戦争に参加し、大変な苦労や、戦果を挙げたたこと、又は戦友との悲しい別れ、戦慄厳しい中の色々、家庭的悲喜交々、何れも第一線に臨み、生死の線上に立っての有り難くも尊い体験談をよく聞いたり、読んだりする。  そうした度毎、私はほんとうに長い月日ご苦労様でした、お陰様でありがとうと感謝の…
栄町2丁目17番 思い出の街角

栄町2丁目17番

昭和35年 白黒写真に着色をした画像 栄町2丁目17番。奥には栄町浴場、『リハツパーマの千葉理容院』  娘の自転車を直している父。お父さんの背中で戯れている女の子「お父さん大好き」そんな声が聞こえてきます。・・・ヤマの町の穏やかな一コマです。  手前に石炭庫。スコップが見えています。向こうに栄町浴場…
流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6 流れのように

流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし③-■|長谷川 安造 #6

 今次大戦では、兄の長男(甥)が角田から出征後、満州で訓練を受け、終戦の春、沖縄に移動、6月の那覇市南方の真栄平で激戦の末、戦死した。兄の家は、二男が鉄道に就職し、当時、空知農学校付属寮母職の母を呼び、のちに嫁を取り結婚。岩見沢市内で家を継ぐ形となる。  私の弟は、終戦と同時に、色丹島で捕虜となり、…
明石町付近 眼下の列車 運んだ、石炭を人を

明石町付近 眼下の列車

昭和48年  崖の上からシューパロ湖、道道、列車を見下ろして撮影。右手に白銀橋が見え、明石町駅付近。閉山提案の年、黒い鋼鉄に白字のペイントが激動の大夕張を感じさせ、事実この年の12月には、この区間は、廃線となってしまった。…
流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし②-■|長谷川安造 #5 流れのように

流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし②-■|長谷川安造 #5

 沼ノ沢から大夕張に引っ越して間もない頃、忘れられない思いがある。  二女は幼少時、ジフテリアにかかった。  小学1年入学前のこと、病院で、再びジフテリアと診断され、血清注射を受けることになった。  草野院長が、「念のためきくが、この子、これまでに血清注射をしたことはないだろうな」ときいた。  私は…
流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし①-■|長谷川安造 #4 流れのように

流れのように■思い出の記 -大夕張のくらし①-■|長谷川安造 #4

 私は14年間の思い出多い、沼ノ沢を後に、昭和13年春、大夕張尋常高等小学校に転勤した。母、私たち夫婦と娘三人の六人で、青年団員や父兄、教え子に見送られ、大夕張の地に移住した。  沼ノ沢の教え子たちと、青年団員は、新築炭住の私の引越し先まで来てくれ、手伝ってくれたものだ。嬉しい志に感謝。  昭和13…
『流れのように』と祖父のこと 2丁目3番地

『流れのように』と祖父のこと

 『青年の夜学』の原稿のことについては、掲示板でお知らせしましたが、こちらは『備忘録』なので、私の為に、重複する部分もありますが、書き留めていきます。  『青年の夜学』の原稿は、祖父が亡くなったあと、偶然見つけたものです。  祖父は昭和39年札幌に定年退職後、家を建て、亡くなるまで、発寒に住みました…
鹿島中学校校舎全景 学び舎の思い出

鹿島中学校校舎全景

昭和40年頃 マンモス校  【藤田育雄】 今、思い出して見たら、一学年10クラスのA~Jまでありました。 マンモス学校で、左の白い二階屋根の建物の一階に科学教室がありましたね? 自分、科学クラブでしたので???  2階建ての新校舎ができたというのが昭和35年の10月ということですから,それ以後の写真…
大夕張駅の『NO.4』 運んだ、石炭を人を

大夕張駅の『NO.4』

昭和30年代  №4 【奥山 道紀】  『№3』と共に三菱鉱業が自社発注したSLです。  昭和16年日立製作所で製造され、美唄鉄道を経て、昭和22年より三菱大夕張鉄道で活躍しました。  バック運転しやすいように特注されたC56形テンダが特徴です。  前照灯も横に№が入るアメリカ形の大型のものを装着し…
流れのように■青年の夜学 ~山奥の出張教育所~■|長谷川安造 #3 流れのように

流れのように■青年の夜学 ~山奥の出張教育所~■|長谷川安造 #3

 今から50余年前のこと(昭和19年頃)大夕張尋常高等小学校から更に15km位、(シューパロ)川の上流地点に、冬山造材所があり、そこで数十人の青年たちが働いていて、山奥の青年夜学出張教育所が開かれていた。  私は或る土曜日の夕刻、スキーで林鉄(※)沿いに、細い雪道を,造材事務所を目指し急いだ。  歩…
遠幌駅構内 運んだ、石炭を人を

遠幌駅構内

昭和35年頃 遠幌構内積下   【本間正雄】  遠幌駅構内積下は昭和35年前後で、この時期大夕張炭鉱の奥部立坑が、八百五十の近くに建設中で、遠幌からエンホロカベツ川沿いの林道から建設資材を運搬しました。  遠幌駅構内はその時の骨材の積み下ろし作業です。…
流れのように■昭和16年 夕張岳登山■|長谷川安造 #2 流れのように

流れのように■昭和16年 夕張岳登山■|長谷川安造 #2

 昭和13年春から夕張岳に一番近い麓の、大夕張尋常高等小学校に勤めることになった。  この学校では早くから、児童の健康体力増進を重視し、その一つとして、毎年夏休みに入るとすぐ夕張岳(1668m)への登山を計画し、年中行事としていた。  高等科1、2年生の内、病弱な者をのぞき、全員が参加することになっ…