夕輝文敏 約 束|夕輝文敏 「いいか、今年のクリスマスは特別なんだ。明日の夜八時教室に集合だ。わかったな」 初の言葉に、正春も武も大きく頷いた。 年が明けて三月になると、三人の小学校は閉校となってしまう。 全校生徒十二名中五年生は初たち三名であった。 初たちが生まれる前に、この街を支えていた炭鉱が閉山となってしまった。… 続きを読む
楽しかった日々 シューパロ湖 ボート遊び 昭和37年 シューパロ湖、ダム建設により湖が誕生してすぐの頃。 向こうの湖岸を、鉄道と開通したばかりの清水沢ー大夕張間の道路が走る。 このダム湖ができてすぐの頃、誰ともなく言われていたはなしを覚えている。 この湖は、川をせき止めてつくられた。湖底には森林の木々が沈んでいる。よって、湖… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 汽車通学|高橋正朝 #46 例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。 昭和47年 国土地理院 空中写真 三菱(鉱)バス 山内線 路線図(路線・停留所名) 上記は、バス路線図だが、大夕張方面から鹿島中学校へ行く経路と、東高校( 鹿島高校 )へ行く経路を比較するのに便利なので、以下の文章のために、コピペしました。… 続きを読む
思い出の街角 南大夕張貯木場と森林鉄道SL 昭和10年代半ば 南部。 南大夕張貯木場 森林鉄道SL『7号』 白黒写真に着色した画像 南大夕張貯木場と森林鉄道SL 【奥山 道紀】(2005年4月23日) 夕張岳山麓の三菱大夕張鉄道の大夕張炭山(通洞)、南大夕張、遠幌(短期間)の各駅からは、かつて森林鉄道が、さらに奥地へと延び切り出された木… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和28年 鹿島小学校歴代校長 鹿島小学校開校25周年記念行事の際の写真。 鹿島小学校グラウンドでの記念撮影。 背後のグラウンドでは、野球の試合が行なわれ、撮影に臨む伊沢校長や、亀井校長もサンダルやスリッパなのも、飾らない当時の時代の雰囲気が感じられて面白い。 昭和3年の開校から数えて、7代目は、当時の石垣貞司校長。 … 続きを読む
思い出の街角 昭和27年 常盤町山神祭 山車置き位置 |岩田直彦 昭和27年5月ですと、小生は8歳で小3年になった頃の写真ですね! 私も山神祭に参加していたのか、記憶は定かでないですが、同級生の男の子が写っていますね。 写真上部の中央~右側の2軒続きの炭住の右側(青枠内)は小生家族の居宅でした。 撮影した山車が置かれている場所は、常盤町の岩野商店から暁… 続きを読む
街の行事 昭和27年 常盤町山神祭 昭和27年、5月に山神祭が行なわれていた頃の写真。 巨大な『龍』を先導するのは、法被や着物をまとった子どもたち。 子どもたちの列の中に、鉢巻きをした大きなタコが、『蛸八(たこはち)』と書かれた扇子をもっているのが見える。 その『蛸八』に付き従うのは、男の子たち。頭の上には、蛸のかぶりもの。 … 続きを読む
思い出の街角 斎藤商店付近 昭和47年頃だろうか、特徴的なハンドルの自転車に乗っている子どもたち。 千年町、斎藤商店付近。 この先のゆるやかな坂道を降りていくと、鹿島東小学校があった。 赤い郵便ポストが店頭に置かれ、日糧パンの看板がかかる、斉藤商店。 小学生の頃、千年町の教員住宅に住んでいた従兄弟の家では、米から作る… 続きを読む
街の行事 協和会館 戦後 昭和20年代後半か。協和会館の東側に昭和30年に建築される代々木アパートがまだない。 写真の協和会館は、昭和32年に改築、改装される。 協和会館前。標語塔には、『続く保安に輝く記録』『増産は一人一人の保安から』とスローガンが書かれている。 改装後の協和会館の写真には、この標語塔は写っていない… 続きを読む
思い出ばなし 鹿島国民学校時代と戦後の思い出|T・A 鹿島小学校グランドは、大夕張住人にとって、最大のコミュニケーションの場所でした。 カエデの木は、その歴史を見つめてきたのです。 昭和17年、国民学校入学。その頃の出来事・・・。 戦前戦中の児童は、校門を通るとき教会のあった場所の奉安殿に向かって、お辞儀をしてから校内に入るのが習慣であった。 … 続きを読む
楽しかった日々 熊撃ち 昭和30年代 撮影の詳細は不明だが、鹿島小学校郷土室にあった写真。 戦後、栃木の男ばかりの6人兄弟の末っ子だった父が、三菱大夕張に就職がきまり、家族に「北海道には熊がいるのに、どうしてそんな危険なところへ行くか」と猛反対を受けた、という話を、母がよく父や私たち兄弟のいる前でも話していた。 … 続きを読む
夕輝文敏 イリュージョン /大晦日の奇跡|夕輝文敏 (目次) 路地裏目覚めサイレンの音父の背中年越しの夜葉 書 路地裏 隆一はその夜いつになく酔っていた。 同僚と別れた後、すぐにタクシーを拾おうとしたが、どれも満車であった。年の瀬のススキノは、人で混み合っていた。 隆一は仕方がなく、冷たい風に当たりながら、酔いを覚まそうと歩き出した。 しばら… 続きを読む
楽しかった日々 弥生町の小熊 昭和36年 弥生町にて 白黒写真に着色した画像 父と小熊の思い出 【成松泰彦】 1999年9月8日 写真は昭和36年頃です。 この頃は大夕張近郊の山に毎年雪解けになると必ず羆(ひぐま)が出没し、その駆除にと、父の所に連絡が入ったものです。 連絡が入ると、夜中でも出かけていった記憶があり… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 明石の沢からの水汲み |高橋正朝 #45 明石沢の鉄橋。平成11年8月に国道から撮影。閉山以降、サイクリングロードとして利用されていた。 以前、服部商店横の、消防用水の溜池のときに書き込んだ内容と一部重複しますが、飯田さんが編集した年表を見ると、 1953年( 昭和28年 )11月に、明石町専用水道が創設される。明石の沢の取水堰より、… 続きを読む
運んだ、石炭を人を 南大夕張駅を発車した列車 昭和46年、8月22日。南大夕張駅を発車した列車。 このあたり奥の高台には、南部小学校の姿が見えている。 南大夕張までの風景と一転し、この先は、目の前にシューパロ湖、両側に険しい山がせまり、いよいよ山奥に入ったという感じがつよくしたものだ。 それは、大夕張の住民にとっては、『やっと帰ってきた… 続きを読む
思い出の街角 夕張東高等学校 教員住宅前 昭和40年頃、夕張東高の工藤先生と、ご子息。明石町、夕張東高校の教員住宅前。 白黒写真に着色した画像 これは高校の校門脇、工藤~坂井の住宅を写したところです。… 続きを読む
通史 大夕張年表 1635年(寛永12年) 松前藩主が家臣に命じて、アイヌ人数百人に数年間にわたり夕張岳を中心に夕張川上流で砂金の採集をする。 1888年(明治21年) 夕張川川岸15尺の大露頭が発見される。(南大夕張 旧錦坑)しかし、地形峻険のため開発は進まず。 1897年(明治30年) 10月 30日、京都合資会… 続きを読む
思い出の記 緑町山車の三味線少女 |Kawauchi Masami 白黒写真に着色した画像 北菱から師匠の大夕張に、緑町の山車での演奏 昭和44年 大夕張炭山祭り。山車に三味線で乗ってます。 お祭りは小学校5~6年生で、後に私のお嫁さんになりました。 当時妻は、北菱炭鉱に親が働いていて、大夕張のお祭りに、三味線で呼ばれたそうです。 大夕張のお祭りが盛大な… 続きを読む