大夕張の夜 | 内川准一

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1999年 6月4日 金曜日 17時53分11秒

旧・鹿島小の校庭で 一人テントを張って

無人になってしまった大夕張の夜を過ごすつもり!

あの賑やかだった大夕張が

どんなに深い闇の中に沈んでいるのか

何が 大夕張を支配しているのか

そして

長い 長い 空白を経て

いま50歳を迎えた私が

どれだけ昔の人を身近に思い出せるのか

怖くて厳粛な

これは儀式なのです。


1999年6月5日 土曜日

 私は鹿島小学校の庭にテントを張り、一人だけの大夕張の夜を過ごした。

 あの賑やかだった大夕張が、既に無人の街になっていた。

 かつて、何千人の子供達がここで生まれ、泣き、笑い、溢れるばかりの想い出を胸に去っていったと思う。

私もその一人だ。

 この日は、長い空白の時を経て、50歳を迎えた私にとって、37年ぶりに過ごす故郷の夜なのだ。

 多くのものが既に失われて、最後に残る小学校さえ無くなろうとしている今、想い出をたどれるのはこれが最後の機会になるかもしれない。


 そうなる前に、大夕張の空気を吸い、昔の人のことを思いながら眠りたい。


 そして、誰もいなくなった大夕張の夜を支配しているのは何なのか、大夕張が大夕張であり続けるための最後の条件は何なのか。それを考えたい。


 それが校庭で泊まるきっかけだった。

 5日の午後は暑いくらいの日射し、午後2時現在、陽は高くハルゼミが賑やか。

 当然ながら携帯電話は圏外を表示。

 これでいい。

 校庭は野鳥と蝶の遊び場の風情、様々の鳥達が訪れ、蝶が戯れる。

 なんとトンボまで飛んでいる。

 大夕張はトンボが遅かったはずなのに!


 校庭はずれのブランコは、雪の重みのためか、軸がぐにやりと曲がっている。

 もう誰にも遊んでもらえないブランコは、それでも、ムクドリ達の巣として最後のお勤めをしている。

 富士見町の山側からはチェーン・ソーの音が響いてくる。

 今は国道452号となった道路も、ひっきりなしに車が通って賑やかだ。

 釣客、山菜採り、ドライブ目的、いろんな車が来る。

 昔はこうじゃなかったね。

 夕方に近くなってもいろんな人が校舎の前に現れる。

 バイクで来る者、小学生くらいの子供を連れた家族の車。

 便所場球場と呼ばれている場所で、トノサマバッタを追った日々があった。あれくらいの低学年のころ、そしてこんな日射しの強い日に。


 いつも逃げられたバッタを、帽子片手に追い続けた数年。しかし高学年になってから立場は逆転した。バッタが逃げ切ることはもうできなくなった、そして私も殺傷をしなくなった。少し大人になった。

 校舎は午後6時頃までは日が射しているが、日陰に入ってからは、ゆっくりと闇の中に沈んでいく。青い屋根、クリーム色の壁、レンガのアクセント、3階に届くまでに育った木々。


 黒く沈む窓ガラスが不気味。夜空に浮かぶ圧倒的な存在感。

 裏山の木々も良く茂ったものだ。時々食べたクワの木は、どこいら辺だろう。

 星空がだんだんくっきりしてくる。

 明るい星空、たくさんの星。空が狭い。

 南部の山影さん差し入れの手料理で食事をし(ご馳走様)、戴いた本をランプの下で読む。

 南部の昔の出来事が新鮮だ。

 いろんな出来事も、個人史の形だからこそ、生き生きと残せるのだと思う。素晴らしい。

 私にも思い出すこと、思うところがいろいろあった。

 当時は人間環境も、自然環境も、そして炭坑が、頂点を迎えた時代背景もあって、エネルギッシュな独特な雰囲気が街にあった。


 そして、ベビーブーマーと呼ばれる私達の年代の子供は、大人の世界と子供の世界がリンクしている恵まれた環境の中で育てられたのだ。


 親子の断絶などは無かった。テレビはおろか、小学校に上がる前は、ラジオさえ無かった。


 我が家の晩御飯は、おしやべりの時間だった。


 狭く乏しい中での、恵まれた生活だったのだ。

 私は、そして、昭和37年の春に小学校卒業と同時に大夕張を離れたため、斜陽に向かう大夕張をほとんど知らない。

 その後も、長い間、大夕張を訪れていなかったために、子供の目で見た印象が冷凍保存されたもののように新鮮なのだと思う。

 無人になってしまった大夕張は、街のあたりに、だいだい色の街灯が灯って寂し気です。


 官行方面から来る車のヘッドランプが一瞬、校舎の時計塔を夜空に浮かび上がらせますが、それも9時頃までで、その後は富士見町のカエルの合唱が賑やかです。

 家2軒だけになった旧駅前通りが明るいので、一人で深夜の散歩してみました。


 「太古の森を切り開き、埋もるる宝返さんと、力よ、誉れよ、血の響き・・・」

 昔、商店街だった通りに声が吸い込まれて行きます。


 月夜の校庭では、楓の大木の近くに「母と子」の像がたたずんでいて静かです。

 風も無く、校庭の楓の葉音も無い、静かな夜が過ぎていきます。

1999年6月6日 日曜日

 明けて6日は、素晴らしい快晴。

 山の霧が晴れるほどに視界が広がり、校庭中のタンポポが見る見る開き出す。

 青空がまるく見えて、山の後ろから、真っ白い雲がわき上がる。

 思えば、山の陰から現れるものはいろいろあった。

 飛行機雲も、ヘリコプターも、音が先にあって、本体は850(八百五十)裏から、突然出たりしたものだ。

 太陽も月も、みんな夕張岳の陰から突然現れていたような気がする。

 頭上の空は、コントラストが高すぎて、何か現実感の無い眺め。昨日の夕焼けもそうだったけど、芝居の背景のような雰囲気だ。

 山に囲まれた大夕張には、地平線がない。地平付近にありがちな、もやもやがない。


 朝日はカツとした熱気を伴って顔を出し、夕日は明るいままに沈んで行く。

 夕陽は見えないのに、頂が赤く染まった夕焼け雲だけが、官行の空を、流れて行く。


 こうして、盆地の大夕張は、急速に夜の世界に入って行くのだった。


 昔からそうだったのです。子供らはチャイムの合図で山を下り、暗くなる前に、家に急いだものでした。

 裏の長屋からは、下山淳一のお母さんが、「しょっこ-、しょっこ-」と子供を呼ぶ声が聞こえ、長屋の至る所にご飯を焚く臭いや、魚の煙などが漂っていました。


 そのときも、地底では、父たちが昼夜の別無く石炭を掘っていたのです、命がけで。

 いさぎよい昼夜の交代、夜の長い町、これが大夕張の一つの顔だったのです。

 早朝から飽かずに眺め続ける夕張岳が、変化する。

 シルエットから順光に変わると、不気味さが消えて表情が穏やかになる。


 残雪が白く山肌とのコントラストが美しい。

 大夕張の昼が始まる。

 もし、当時の大夕張が続いていたならば、今日あたりは運動会の日で、何千人の声援が校舎を揺るがし山々にこだましていたことだろう。そして、あの日もそうだったように、フォークダンスの輪の中で、男子生徒達が照れくささを隠しながらも、何十人かの女生徒と手を取りあっていたことだろう。

 校舎の廻りを歩くと、どこから入ったものか、中に鳥がいる。

 あちこち出入り口を点検してみると、厨房のドアが開いた。中に忍び込み、大捕物の末にセキレイを捕まえる。

 野生は力強かったが、捕まってからは、指をつつきもせず、観念しているのが可愛いい。

 こいつのおかげで、思いがけず校舎の中に入ることができた。感謝!

 6年菊組だった教室には、何故か埴輪等がたくさんあって、他とは違った雰囲気だった。

 一緒に忍び込んだ富良野のバイクツーリストに、写真を撮ってもらう。(寂しげな表情に写っていて、後でびっくり)

 用意してきた特長靴をはいて川を渡り、便所場球場に、足を運ぶ。

 球場への吊橋はすでに失われて、頑丈な橋脚だけが川の中に取り残されていた。

 橋脚には流木が引っかかって、山を作っていた。

 それに登って辺りを見ると、「春日橋」の文字が目に入った。この橋は春日橋という名だったことさえ、すっかり忘れていた。何百回となく渡っていたはずなのに。

 当時、我が家では猫を飼っていた。猫は、雌で、時々机の中に仔を生んだ。

 子猫達が可愛くなって、情が移らないうちに捨ててくるのがうちのやり方だった。

 子猫のもらい手は無かったのだった。

 いつもは父の仕事であったそれが、一度だけ、何故か私の仕事になった。

 しかも、このときは、子猫も少し成長していて可愛いかった。

 私は、紙袋に子猫達を入れ、春日橋の中ほどから、それを川に投げ込んだ。

 増水で濁って波立つ川に落ちた袋は、簡単に水に飲み込まれ、それっきり見えなくなった。

 私は目をそらさないで、それを見ていたことは、覚えている。けれど、思い出せるのは、そのことだけだ。

 この時、子猫達が、何故いつもより成長していたのか、いやな仕事が、何故私の仕事になったのか、春日橋の名をこの日まで忘れてしまっていたのは何故なのか、これらの出来事は、あるいは互いに関係していたのかもしれないが、今はもう分からない。

 下の水面を見ると、泥の多い浅瀬に、カジカのこっこが一匹いるのが見えた。何故かほんわりした暖かい気持ちが湧いてくる。


 思い出しました。

 手を差し入れると暖かく感じるような、こんな浅瀬には、よくこいつらが日向ぼっこしていて、子供達の遊び相手になってくれました。


 小さい子供達にも、簡単にすくい取れたものです。


 当時は、男の子も女の子もなく、服が濡れたら裸になって絞り、乾くまで付近で泳いだりしたものでした。何のこだわりもない、天心爛漫だった時代のことでした。


 少し嬉しくなって、元気が出てきた。

 かすかな風に乗って柳の綿毛が流れて来る。

 中州ではチドリもチチチとさえずっている。


 みんな昔と同じだ。便所場球場にも行ってみよう。

 球場には昭和36年当時の面影は無かった。立派なバックネットが錯びたまま立っていた。


 当時はこれさえ無かった。グラウンドも一面だけだったように思う。

 このはずれで、よく化石採りをした。

 化石の穴場だった。

 けれど、今はもう深い薮、育った林に隠れて分からない。


 しかし、変わらないものがあった。フェンスに登ってみると、球場の外を大きく迂回して流れるシユーパロ川の下手に大きな中州があって、沢山の木が生い茂っているのが見えた。


 中州を囲んで二手に分かれた川筋の一方は、ほとんど流れが無く、池のようになっている。


 昔と同じ。40年前から少しも変わってないかのように。

 

 自分でも驚くような声が出た!

「やっちゃん、あるよ!」


 当時の友達の名前が、口をついて飛び出した。


 隣に住んでいた茂木保夫くんと、木の潜水艦を作って、潜水時間を競争したのがここだった。

 親父譲りの器用さで、工作では歯の立たないやっちゃんだった。

 30年以上、音信が途絶えている、遠くに住んでいるけれど、会いたいものだ。


 再び川を渡って戻り、他の場所へも行ってみることにする。


 この辺りの川は冬になると、川幅の半分くらいまで氷が張って、その上に、誰が作るのか、円錐形の粉炭の山がいくつも築かれていたものだった。


 乾燥させるためなのか、半ば凍りついたままで氷の上に立っていた。


 石炭がただ同然だった大夕張にあって、炭坑職員でない誰かが、川底の粉炭をスコップですくって積み上げて作ったものだった。切ない重労働だっただろうと今は思う。


 至る所に鹿の足跡がある、鹿島に鹿は、昔はいなかった。

 けれど熊は時々食べた。

 街にはハンターが大勢いて、冷蔵庫の無い時代だったためか、仕留めた獲物は解体されて、近所中に振る舞われた。おいしくなかった。

 子供らには、決められた範囲(家から見える範囲)以上山奥には入らないこと、暗くなる前に戻ることが義務づけられていた。


 春日町の裏のシェーバロ川の縁に熊が現れて大騒ぎになったこともあった。

 官行のダムへ寄る。

 崖の斜面を下る前から、轟音が響いて、すごい水量。

 下りきると、川幅一杯に巨大な取水堰があって、当時と同じように見える。

 ほとりには、今は使われていない取水施設に、夕張マテリアルの会社名と、平成4年の「水利権」の表示がある。最近まで現役で使われていたことが分かる。


 このダム(堰)の付近は子供らのよい遊び場だった。


 ここまでくると水もきれいで、気持ち良く、夏になれば水量も減って、ダムの上流では泳いだり、ヤスを使って魚採り。下流ではヤツメウナギを手で捕まえたりした。


 明るい気分。青空、蝉の声、覗きめがねとゴザッペ(?)、暑さと涼しさの混じり合った空気、水音と静けさなど、子供時代のうきうきした感覚が戻ってくる。

 官行へも少し足を伸ばす。

 当時、森林鉄道は、初音沢の鉄橋に行く手前で、崖の中腹を切るょうに大きくカーブしており、切り立った線路際には、木も生えず見通しがよかった。

 人は 皆、線路の縁を歩いて奥へと向かった。


 ある年の十五夜の日の夕方だった。この年はどうした訳か、何千人もの人が、ススキを求めて官行に繰り出したのだった。

 早い時間に乗り込んだ私は、帰路にはカーブした崖で人混みとすれ違うはめになった。同級生の姉さんぶって見えた女子達が親に見せる、甘えた笑顔が新鮮だった。

 学校に戻った私は、かなりの時間を校庭で過ごした。

 私の住んだ弥生町は、20年以上も前に、とっくに失われていた。

 そして、あまりにも長い空白のために、沢山の大切な記憶を失っていた。

 断片的な記憶の中で、沢山のもどかしさが残った。

 午後になっても、私はまだ校庭に座っていた。飽くことなくそこにいた。去り難かった。

 ここは、私の故郷です。しかし、もう故郷ではないような気もします。

 故郷は、もうとうの昔に失われていて、ここにあるのはその残骸にすぎないようにも思えます。

 そして、最後に残った小学校が失われとき、ここはもはや大夕張でなくなるかもしれません。

 人の営みの痕跡が消えることが、こんなにも重いこととは、知りませんでした。

 父母の存在の痕跡も、私が生きていた証も無くなったとき、故郷は記憶の中で遠くなっていくだけなのでしょうか。

 炭住の黒い屋根の上に聳えていた夕張岳が、湖に映る夕張岳に変わっても、ここを故郷と感じることは可能なのでしょうか。

 空しさを通り越して、せいせいするくらいに、あんまりだ。


 1万8千人の街が無人の街になってしまうなんて。

 それでも足りずに、人々が生きてきた痕跡さえも消してしまうなんて。


 なんということだ!

 いいや、巨大な伽藍堂になってしまう大夕張だけど、その上に超然として夕張岳がある限り、私の想い出が風化することはない。

 私は、夕張岳とそこに連なる多くの自然の恵みがあったからこそ育ったのだ。

 私の精稗や志向は、ここに生まれ育ったからこそ、形成されたのだ。

 私自身も、夕張岳の一部なのだ。大夕張の一部なのだ。

 大夕張の夜

 まだ結論は出ていない。


 しかし、このときのまる1日と、数時間の大夕張滞在には、恵みがあった。


 そして、私は、最高に心豊かな時間をここで受け取った。

(1999年6月5日 大夕張にて記す)


(筆者紹介)

昭和24年5月大夕張生まれ。昭和37年4月,札幌に転出。


3件のコメント

  • こんにちは 私も昭和29年生まれ 物心ついた時から18歳で夕張を出るまでの 思い出が ギッシリ 詰まっております
    お祭り  お盆  お盆の花火大会  缶蹴り 縄跳び けんぱ 茶碗の割れたのを拾ってきて けんぱに使いました。
    運動会や遠足 山遊びや川遊び 川遊びのところで ゴザッペ とありましたが もしかして ガッペ でわないでしょうか?当時 私達は川魚の カジカ の事をガッペ っと呼んでました。それと春日橋

  • 今日の報道。コロナウィルスが累計400人近い死者をもたらしている日本ですが、ヨーロッパ諸国に比べればまだまだ死者数は少ない。しかしこれからは等比級数的に増える可能性がある。国民の窮乏の救済に向けて、政府は財政悪化にも拘わらず手を打つ要がある。その先に経済の破綻があり、悲惨な未来が訪れることだろう。今、自宅待機が求められている我々老人は(失礼)、昔の甘美な思い出に浸って現実から逃避することができる。これは喜ぶべきことなのでしょうね・・もしウィルスに負けて死ぬことになっても、納得できるかもしれません。
    管理人が、私の拙い、個人的な思い出を、新しい舞台に引き出してくれたことに感謝します。
    フェイスブックは、そんなにチェックしているわけではありませんが、コロナのせいでたまに見ています。
    で、このコメントに行き会いました。ご反応ありがとうございます。
    たいへん嬉しいです。
    18年経ったせいか、読み直して、書いた人の感受性の豊かさ・心の柔らかさに感心してしまいます。
    自分で書いたとは思えない・・
    つまり「18年前」は、私にとっては、既に「大夕張同格」になってしまっているのですね・・
    長谷川さん。
    当時はお互い、きっと見知っていたと思います。私の住まいは弥生町1丁目13番8舎でした。貴方はどちらでしたか?
    小学校の名簿などはお持ちですか?

  • 私も同じく昭和24年生まれで、弥生町に住んでいましたので、とても懐かしい思いでメールを打ちました。
    私は夕張東高校卒業後に名古屋の専門学校に通い、資格を取ってそこで就職、結婚し、現在は愛知県の刈谷市に住んでいますが
    炭鉱閉山後は一度も大夕張に足を踏み入れることはなく、慌ただしい生活を送っていましたが。最近になり故郷が懐かしくなり、fece bookでふるさと大夕張などに出会え、とても毎日が楽しみになっています。
    今回も思わぬ出会いに恵まれ、感謝・感謝です。

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