鹿島小学校グラウンドと門柱
巨大な校舎と巨大な2つの門柱。ここにはその右側の門柱が見えています。『昭和十年七月建設』の文字が歴史を伝えます。写真を拡大してみると,東側の通用門もみることができます。最盛期には2656名の児童数を誇ったヤマの小学校の閉山の年の姿です。
鹿島小学校【斎藤 敏幸】( 2006/10/21(Sat) 16:53)
この写真,いいなあ。
丁度僕らがお世話になった頃の,鹿島小学校の姿です。
いつも子供たちの,歓声が響いていたグランド。
そんな様子を,イタヤカエデの木は,ずっと見守ってきたのですね。
なんか,じっと見ていると,懐かしさと,切なさが,こみ上げてきます。
本当に,いい姿をしています。心に,ぐっと,迫ってくる写真です。
鹿島国民学校時代と戦後の思い出【T・Aさん】(2006/10/19(Thu) 14:57)
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小学校グランドは大夕張住人にとって最大のコミュニケーションの場所でした。
カエデの木は その歴史を見つめてきたのです。
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昭和17年国民学校入学 その頃の出来事・・・。
戦前戦中の児童は校門を通るとき教会のあった場所の奉安殿に向かってお辞儀をしてから校内に入るのが習慣であった。
奉安殿には昭和天皇皇后の御真影と教育勅語が納められていた。式典で校長先生が恭しく読み上げた。その間生徒は頭を垂れ神妙に聞き入る。
祝日は質素でも正装して登校したのです。
戦後 昭和24年頃 大リーグのサンフランシスコシールズ軍と大夕張硬式野球チームと親善試合が行われた。
何十対〇 ボールが線路まで飛んだのを記憶しています。
又オリンピック世界記録保持者織田幹雄さんが大夕張陸上部の指導に来ました。
賑やかなグランドを思い出します。
ジャンプ台下のスロープを華麗に滑った天才少年猪谷千春(現JOC委員)さんが来られ 後にオリンピック強化選手になった人がいました。
戦後 陸の孤島大夕張に文化体育の向上に役割を果たしてくれた三菱大夕張鉱業所でした。
夕張市でも誇りある大夕張でした。
昭和12年の校舎の写真に奉安殿がうつっています。