toshi

こんなお盆があればなあ|斎藤敏幸 随想

こんなお盆があればなあ|斎藤敏幸

 社会に出た後,数回でいいから,こんなお盆を迎えることができたなら,本当に良かったのになあと,今でも思います。       お盆になると、都会へ出て行ったこの街の子供たちが、家族を連れて両親のもとへと帰ってくる。    大夕張の人口が一気に膨らむ。  同窓会で仲間たちと酒を飲み交わす。  少し歳を取…
最後の大晦日|斎藤敏幸 随想

最後の大晦日|斎藤敏幸

   大夕張で過ごした最後の大晦日を振り返ってみました。     正確には、大晦日の前日の事なのですが。       1972年(昭和47年)12月30日。      この日、夕張東高第8期生(同年3月卒業)の同期会を、確か千歳町の婦人会館で開催しました。      もう記憶は定かではありませんが、…
本間商店と東高のボタン | 斎藤敏幸 思い出ばなし

本間商店と東高のボタン | 斎藤敏幸

本間商店のおじさんからいただいた、夕張東高のボタン     1997年10月  週末に大夕張へ行ってきました。  ちょうど紅葉が始まっていて、夕張岳の麓も色づいていました。  地元の人に尋ねると、10月10日頃が最もきれいだろうと言ってました。  秋には、一度尋ねてみようと思っている方は、今週末の連…
ふきのとう-2001GW-|斎藤敏幸 訪問記

ふきのとう-2001GW-|斎藤敏幸

イタヤ楓と富士見町方面 グラウンドから夕張岳 鹿島小学校中庭の木  暖かな春の陽射しに包まれながら,仲間たちと鹿島小学校のイタヤカエデの下でBBQを楽しんできました。  桜はまだ咲いていませんでしたが、ふきのとうが沢山顔を出していました。  草木がまだ緑をつけていないため、大地の形を良く見ることがで…
写真の声|斎藤敏幸 随想

写真の声|斎藤敏幸

『岳富町商店街と「しがい」』のコメントに「千歳町」を「しがい」と呼んでいたとありましたね。 僕の周りでも確かに「しがい」呼んでいました。 子供の頃は,街のはずれにあるから「市外」なんだろうと思っていました。 でも、飲食関係の商店街も沢山あったので「市街」だったのかもしれませんね。 武田自転車屋さんの…
窓に迫る雪山|斎藤敏幸 思い出ばなし

窓に迫る雪山|斎藤敏幸

栄町ブロックでも良く雪はねをしました。 雪をはねる場所がなくなると、段はねをするのですが、その度に向かいの棟の1階の窓に雪山が迫り、大変だったのではと、今頃痛切に思っています。 1階に住んでいる人たちは、雪山で外は見えないし、暗いし、早く春になって、雪が溶けるのを待っていたのでしょうね。 あんなに雪…
神戸田舎者物語 | 斎藤敏幸 随想

神戸田舎者物語 | 斎藤敏幸

 所用があり、昨日神戸へ行き、その夜、同級生の加藤(旧姓)美代子さんに会ってきました。  彼女は、僕と同じ栄町ブロックに、新築時から入居し、18になって大夕張を後にするまで、上と下に住んでいました。   小学校から高校まで一緒で、幼なじみというよりは、兄弟姉妹の感覚で付き合ってきました。  中学・高…
ひたむきに・生きた・君 | 斎藤敏幸 思い出ばなし

ひたむきに・生きた・君 | 斎藤敏幸

 私が、栄町アパート( 栄町2丁目14番地の8)に住んでいた頃、二つ向こうの棟のアパートに「佐藤ひでみ(秀美)」君という同級生が住んでいました。   彼は、何事にも真面目で、ひたむきさを持った少年でした。   家が近所のこともあり、互いの家に遊びに行ったこともありました。    彼との思い出で、いつ…
最後の記念写真 |斎藤敏幸 思い出ばなし

最後の記念写真 |斎藤敏幸

   栄町アパートには、東高を卒業するまで住んでいました。    当時の住所は、栄町2丁目14番地の8です。    ここには、元木造の八軒長屋が建っていましたが、それらを取り壊して立てられたものでした。    私は、小学校に入る前年に、新築時に入居しました。  コンクリートブロックの住宅は、当時とし…
濃いめの味 |斎藤敏幸 思い出ばなし

濃いめの味 |斎藤敏幸

 長谷川さんの『食憶』にもありましたが、我家の味付けも塩分の多いものでした。   父は、採炭夫で先山をしていましたので、食卓は一家の大黒柱である父を中心に組立てられていました。   何を食べるにも、たっぷりめの醤油と、極めつきは、『味の素』の山です。   特にサケは「塩引き」といって、焼き上げても表…
タンポポの海 |斎藤敏幸 写真

タンポポの海 |斎藤敏幸

5月の『タンポポ』   北の国にも、やっと春が訪れてきました。  ここ札幌でも、中の島周辺の公園でも桜の花が開きはじめました。  毎年、この季節になると「タンポポの海」を思い出します。    当時、僕の住んでいた栄町ブロックの周辺には、木造長屋を取壊した跡地が幾つもありました。  特に栄町の詰所の辺…
大夕張駅での記念写真 楽しかった日々

大夕張駅での記念写真

  白黒写真に着色した画像   大夕張駅前 ガラスの向こうには、小学校横のカトリック教会が見える 大夕張駅での記念写真 【斎藤敏幸】(2021年5月9日)   昭和40年代前半   石炭合理化の流れで、   大夕張を去る家族を見送った時の   写真のようです。…
採炭小泉組  炭鉱とともに

採炭小泉組 

白黒写真に着色した画像   採炭小泉組 【斎藤敏幸】(2021年5月8日)   昭和30年代前半   当時採炭作業は、組ごとに、組織がありました。 採炭組には、それぞれ熟練に応じ、大先山、先山、後山とありました。 父は先山で石炭を掘っていました。   何かの折に、坑道から出てきたタイミングで   撮…
代々木町佐藤さん宅の記念写真 楽しかった日々

代々木町佐藤さん宅の記念写真

  白黒写真に着色した画像   後ろに見える清掃道具や、牛乳受けの箱も今では懐かしい   代々木町佐藤さん宅の記念写真 【斎藤敏幸】(2021年5月9日)   昭和35年頃   父の友人の佐藤さん宅前で撮った写真です。   私は神社方向の夕陽をまぶしそうな顔を   しています。…
初カラー写真(武徳殿前庭) 楽しかった日々

初カラー写真(武徳殿前庭)

健保会館 三色すみれの花壇を前景に 後ろに栄町アパート(ブロック) 初カラー写真 【斎藤敏幸】(2021年5月8日)   昭和38年頃   父の友人が「カラー写真撮ってやる」との一声で   家族みんなで「正装し」   武徳殿で、初カラー写真を   撮ってもらったものです。…
『三菱君』とご近所さん|斎藤 敏幸 思い出ばなし

『三菱君』とご近所さん|斎藤 敏幸

 以前、TVの「琴姫様」も話題にあがっていましたが,僕もTVにまつわる思い出があります。  まだ、栄町にブロック住宅が建つ前の話なのですが、普段は倹約家の父が何を思ったのか、三菱マークのTVを長屋で一番最初に買ったのです。     さあそれからが大変。  朝となく夜となく、ご近所さんが、我家にやって…
1978年・大夕張・再会 |斎藤敏幸 随想

1978年・大夕張・再会 |斎藤敏幸

 私は、閉山の前年に当たる1972年3月に夕張東高を卒業しました。  閉山後両親は、函館に居を構えました。  そのためか、大夕張に帰る機会もなく数年が過ぎてしまいました。  大夕張と再会できたのは、1978年の7月でした。  当時私は、釧路に住んでいましたが、職場の研修で札幌に出た時、帰ることができ…
晩秋の夕張東高 学び舎の思い出

晩秋の夕張東高

昭和48年頃 今に生きる東高   【斎藤 敏幸】  (98/09/02)  僕たち第8期生は、「大夕張」がまだ活動期にあった年の最後の卒業生です。 1972年3月10日、僕たちは在校生に見送られて、東高を後にあの坂道を降り、それぞれの人生を歩み始めました。  「井の中の蛙」と言われながらも、僕たちな…
鹿島小学校下の出店 街の行事

鹿島小学校下の出店

今日からお祭りだい 【斎藤 敏幸】  06月14日(金)07時16分42秒 わ~い,わ~い。今日からお祭りだ。 昭夫誘って,美代子に声かけて,それで堀田先生とこにも寄って,皆で鹿島小学校とこの出店に行くんだ。 父さんと,母さんからもらった百円玉持って,何買おうかなあ。 スマートボールやって,おでん食…
鹿島小学校グラウンドと門柱 学び舎の思い出

鹿島小学校グラウンドと門柱

巨大な校舎と巨大な2つの門柱。ここにはその右側の門柱が見えています。『昭和十年七月建設』の文字が歴史を伝えます。写真を拡大してみると,東側の通用門もみることができます。最盛期には2656名の児童数を誇ったヤマの小学校の閉山の年の姿です。 昭和48年鹿島小学校(写真クリックで拡大) 鹿島小学校【斎藤 …