白地図 大夕張駅付近建物配置図 大夕張駅付近 昭和33年の資料から大夕張駅付近をピックアップしたもの。 大夕張駅の線路の配線や、周辺の建物も描かれている。 手書きの文字で、中心に「大夕張駅」、右に「◯通(○の中に通の字)」昭和30年代日本各地の駅前にあった日本通運、「購買会」。 「大夕張駅」左には「警察」「消防」、通りを挟… 続きを読む
思い出の記 不思議な話|Kawauchi Masami 昭和35年 私が幼稚園の頃、外で遊んでいる時の事、家の前の下水に、ミミズがいて、私は小便をかけ遊びました。 その夜、チンチンの先が赤く腫れ上がり、痛みました。 父さんに、言ったら 「お前、ミミズにオシッコ かけなかったか?」 と聞かれ、私が 「かけた」 と、言ったら 「明日、ミミズに ゴメ… 続きを読む
思い出の街角 春日グラウンド 昭和40年頃。 春日町から春日橋を渡ると、春日グラウンド。誰が名付けたのか、ひとよんで「便所場(べんじょば)球場」 奥にバックネットが見える。崖の向こうの街は千年町方面。土を盛って造成された様子がよく分かる写真 だ。昭和30年代、自衛隊によって造成されたという。 この土地は、一時、鹿島高校(… 続きを読む
思い出ばなし 「べんじょば球場」の思いで|成松 泰彦 緑町と弥生町との境界の道路を春日町の方に降りていくと、つり橋があったのを覚えてますか? そのつり橋を渡ったところの球場が、なぜかしら《べんじょば球場》と、呼ばれていました。 私の父はハンターでもありまして、熊が出没したという連絡が入れば、熊退治に出かけて、よく射止めてきたものです。 当… 続きを読む
夕輝文敏 約 束|夕輝文敏 「いいか、今年のクリスマスは特別なんだ。明日の夜八時教室に集合だ。わかったな」 初の言葉に、正春も武も大きく頷いた。 年が明けて三月になると、三人の小学校は閉校となってしまう。 全校生徒十二名中五年生は初たち三名であった。 初たちが生まれる前に、この街を支えていた炭鉱が閉山となってしまった。… 続きを読む
楽しかった日々 シューパロ湖 ボート遊び 昭和37年 シューパロ湖、ダム建設により湖が誕生してすぐの頃。 向こうの湖岸を、鉄道と開通したばかりの清水沢ー大夕張間の道路が走る。 このダム湖ができてすぐの頃、誰ともなく言われていたはなしを覚えている。 この湖は、川をせき止めてつくられた。湖底には森林の木々が沈んでいる。よって、湖… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 汽車通学|高橋正朝 #46 例によって、飯田さんが編集した写真をコピペ。 昭和47年 国土地理院 空中写真 三菱(鉱)バス 山内線 路線図(路線・停留所名) 上記は、バス路線図だが、大夕張方面から鹿島中学校へ行く経路と、東高校( 鹿島高校 )へ行く経路を比較するのに便利なので、以下の文章のために、コピペしました。… 続きを読む
思い出の街角 南大夕張貯木場と森林鉄道SL 昭和10年代半ば 南部。 南大夕張貯木場 森林鉄道SL『7号』 白黒写真に着色した画像 南大夕張貯木場と森林鉄道SL 【奥山 道紀】(2005年4月23日) 夕張岳山麓の三菱大夕張鉄道の大夕張炭山(通洞)、南大夕張、遠幌(短期間)の各駅からは、かつて森林鉄道が、さらに奥地へと延び切り出された木… 続きを読む
学び舎の思い出 昭和28年 鹿島小学校歴代校長 鹿島小学校開校25周年記念行事の際の写真。 鹿島小学校グラウンドでの記念撮影。 背後のグラウンドでは、野球の試合が行なわれ、撮影に臨む伊沢校長や、亀井校長もサンダルやスリッパなのも、飾らない当時の時代の雰囲気が感じられて面白い。 昭和3年の開校から数えて、7代目は、当時の石垣貞司校長。 … 続きを読む
思い出の街角 昭和27年 常盤町山神祭 山車置き位置 |岩田直彦 昭和27年5月ですと、小生は8歳で小3年になった頃の写真ですね! 私も山神祭に参加していたのか、記憶は定かでないですが、同級生の男の子が写っていますね。 写真上部の中央~右側の2軒続きの炭住の右側(青枠内)は小生家族の居宅でした。 撮影した山車が置かれている場所は、常盤町の岩野商店から暁… 続きを読む
街の行事 昭和27年 常盤町山神祭 昭和27年、5月に山神祭が行なわれていた頃の写真。 巨大な『龍』を先導するのは、法被や着物をまとった子どもたち。 子どもたちの列の中に、鉢巻きをした大きなタコが、『蛸八(たこはち)』と書かれた扇子をもっているのが見える。 その『蛸八』に付き従うのは、男の子たち。頭の上には、蛸のかぶりもの。 … 続きを読む
思い出の街角 斎藤商店付近 昭和47年頃だろうか、特徴的なハンドルの自転車に乗っている子どもたち。 千年町、斎藤商店付近。 この先のゆるやかな坂道を降りていくと、鹿島東小学校があった。 赤い郵便ポストが店頭に置かれ、日糧パンの看板がかかる、斉藤商店。 小学生の頃、千年町の教員住宅に住んでいた従兄弟の家では、米から作る… 続きを読む
街の行事 協和会館 戦後 昭和20年代後半か。協和会館の東側に昭和30年に建築される代々木アパートがまだない。 写真の協和会館は、昭和32年に改築、改装される。 協和会館前。標語塔には、『続く保安に輝く記録』『増産は一人一人の保安から』とスローガンが書かれている。 改装後の協和会館の写真には、この標語塔は写っていない… 続きを読む
思い出ばなし 鹿島国民学校時代と戦後の思い出|T・A 鹿島小学校グランドは、大夕張住人にとって、最大のコミュニケーションの場所でした。 カエデの木は、その歴史を見つめてきたのです。 昭和17年、国民学校入学。その頃の出来事・・・。 戦前戦中の児童は、校門を通るとき教会のあった場所の奉安殿に向かって、お辞儀をしてから校内に入るのが習慣であった。 … 続きを読む
楽しかった日々 熊撃ち 昭和30年代 撮影の詳細は不明だが、鹿島小学校郷土室にあった写真。 戦後、栃木の男ばかりの6人兄弟の末っ子だった父が、三菱大夕張に就職がきまり、家族に「北海道には熊がいるのに、どうしてそんな危険なところへ行くか」と猛反対を受けた、という話を、母がよく父や私たち兄弟のいる前でも話していた。 … 続きを読む
夕輝文敏 イリュージョン /大晦日の奇跡|夕輝文敏 (目次) 路地裏目覚めサイレンの音父の背中年越しの夜葉 書 路地裏 隆一はその夜いつになく酔っていた。 同僚と別れた後、すぐにタクシーを拾おうとしたが、どれも満車であった。年の瀬のススキノは、人で混み合っていた。 隆一は仕方がなく、冷たい風に当たりながら、酔いを覚まそうと歩き出した。 しばら… 続きを読む
楽しかった日々 弥生町の小熊 昭和36年 弥生町にて 白黒写真に着色した画像 父と小熊の思い出 【成松泰彦】 1999年9月8日 写真は昭和36年頃です。 この頃は大夕張近郊の山に毎年雪解けになると必ず羆(ひぐま)が出没し、その駆除にと、父の所に連絡が入ったものです。 連絡が入ると、夜中でも出かけていった記憶があり… 続きを読む
続・大夕張つれづれ 明石の沢からの水汲み |高橋正朝 #45 明石沢の鉄橋。平成11年8月に国道から撮影。閉山以降、サイクリングロードとして利用されていた。 以前、服部商店横の、消防用水の溜池のときに書き込んだ内容と一部重複しますが、飯田さんが編集した年表を見ると、 1953年( 昭和28年 )11月に、明石町専用水道が創設される。明石の沢の取水堰より、… 続きを読む